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タイトル: 映画「FINAL FANTASY」
日付: 2001年 10月 05日 23:07

中盤から激しくネタバレするので、未見の方は読まない方が良いかと。

CGムービーとしては見事でした。セガもゲーム・ネタのデジタル・ムービーとして「シェンムー」を公開しましたが及ばないでしょう。
確かに現行のデジタル・ムービーとしては最高の技術力だとおもいます。
今すぐではありませんが、米国の俳優が「俳優の脅威になる」といったのもあながち嘘でもありません。

ですが「劇場映画」という面を考えると、エンターティメントとして及第点とはいえない点がいくつかあります。
それも1つは、CGかどうかと関係ない次元での問題です。本編の冒頭のことなので、まずはこの問題から。

◆説明から始まるFF

本編が始まると、まず文字だけの状況説明が始まります。画面に8行、それが数画面つづきます。

遠い未来の地球に「ファントム」という侵略者が隕石の落下とともに襲来し、人類はバリアーを張ったドーム都市に封じ込められ、滅亡の危機に瀕している。
その解決方法として、8つの精神体から「スピリット」という魂の波動のようなものを得て、その波動によってファントムを中和してしまう必要がある。
その「8つのスピリット」説を唱えた博士の助手の女性が主人公の「アキ」。
それに対し、軍事力によってスピリットを殲滅できると信じる軍部は司令が暴走し・・・。というのが序盤の状況です。

このうち、ファントムの侵略とスピリットを集める必要の部分が、スピリットに効果を持つ武器になるエネルギーがいつ発明されたのなんだのと共に文章で説明されます。
一見、「STAR WARS」も同一の手法と捕らえがちですが、実際には1作目では読んでいなくても、ヒロインであるレイア姫が乗った宇宙船が帝国軍の戦艦に襲撃されているところからみても問題はありません。
動画カットに入ってから見ていれば、主人公ルークがフォースを身に付けてジェダイの騎士としての成長はしっかり描かれているので、ラストのデス・スター撃破まで緩急の波に乗っていれば特に考える必要がないようになっています。

ですがFFでは「8つのスピリットを集める」ということは忘れてはならない前提条件で、文字情報を読み流してしまうと途中で会話のツボを捕らえることが出来ないカットがいくつかありました。

もう1つこの点で比較する必要がある作品として同時期上映である「千と千尋の神隠し」があります。
宮崎駿作のこの作品は童話的手法を全開にした宮崎アニメの真骨頂で、つまり事前説明はなし、すべて見るだけで物語やその要素がわかるつくりになっています。
そのうえ同監督の空想力を駆使した世界の見栄えは、繰り返して見れば見ただけ新しい部分を発見するという、リピーターを生み出す要素が計算されて描きこまれています。

対象年齢の違いという点は考慮の余地がありますし、上映時期が重なったのは偶然なのかもしれません。
ですが興行的に、編集済みのFFのフィルムを見たうえで宮崎アニメに勝てると考えてぶつけてきたのなら、それはFFのタイトルとハリウッドの「技術」に溺れたうぬぼれと言わざるを得ません。

物語の導入部でどういう惹きつけ方をするかの差が、両方を見れば歴然とするでしょう。

◆映画では見えてしまう説得力のなさ

人類は「ファントム」という侵略者と戦っているのですが、実際には通常の兵器が通用せず、スピリットに関する発見をした科学者が、その以前に発明した生体エネルギーとでもいうものを充填した武器でダメージを与え、個体は破壊、殺傷できる設定になっています。
これもオープニングの文字説明で出てくるところです。
これは「狼人間には銀の弾丸」ていどの理解で済みます。

問題なのは最大の要点である「8つのスピリット」です。
物語のふたつめの「緩」の部分で、アキは恋人にこのことを説明します。
ただし、なぜその8種類の生き物なのかは説明されません。
物語冒頭でアキは一本の雑草を回収するためにファントムのいる地域に入り込み、そうとは知らず恋人が率いる小隊に救出されます。
つまり地球上に存在した動植物から(人間を含め)8種が代表とされているのです。
ほかに何万種と生き物が入るにもかかわらず。

この点は、「クリスタルがなぜ世界を左右する力を持っているのか。」という謎が説明されないゲームのFFと変わりないようですが、ゲームにおいてこの点は「プレイヤーがゲームをプレーする」というインタラクティブ性のために気にならないのです。
ゲームでは「クリスタルにどんな効用があるか。」が重要な点で「なぜクリスタルなのか。」はゲーム進行やストーリーには関係しません。
これは「ゲームだから」というメディアの甘えの1つかもしれませんが、プレイヤーが「遊ぶ」という点で埋め合わせが出来ているといえると思います。
現実において、車を運転するのに運転技術は学ぶ必要があってもガソリンの組成などをドライバーが意識しないのと同様です。

ですが、映画では作中で集めるべきスピリットが判明していくごとに疑問として感じざるを得ません。
後述しますが、これはストーリーの「オチ」に関わるため避けられない疑問で、あげく解決されないため見た側が明確な疑問として意識しなくても、映画としての「終わり方」として爽快感を与える事が難しいと思われます。

ゲームでは説明せずとも済んだことが、映画では説明不足として浮きあがってしまうという「メディアの違い」を感じさせる点です。

◆CGムービーの効用

プロモーションでも前面に押し出された「すべてCG」である点は、SF的シーンで際立った利点を示しています。
特に無重力シーンと特殊な地表シーン、メカ、そして透過(透き通って向こうが見える)存在の描き出しという点です。

現在の技術として、パンフレットを始めとする止め絵では実際の人の写真とみまちがっても無理がない描きこみですが、やはりCG俳優の動作には違和感がつきまといます。
ですがそれを割り引いても、周囲の「セット」と俳優が組み合わさった「シーン」としては無重力の表現の不自然(特撮だと撮影で無理すること、編集で特撮フィルムを何十枚も重ねるなどの手間がかかるからか、多くのSF映画ではカットが短い。)、特撮映画でよくある「地表セットの違和感(岩がゴロゴロの荒地なのに、登場人物の立っている位置には水平な「床」が感じられてしまう)」がありませんでした。

またメカの描写は、人体よりも物理的な要素が少なくわかりやすいためか、あるいは過去の特撮映画のフィードバックか、非常に見事です。
ただ、地球の未来SFとしてはメカニックの構造が複雑過ぎる気もしましたが・・・。

映画の興行成績が振るわずスクウェアは映画事業から撤退しますが、「CGの表現」という技術という点では、関わったスタッフを通じて映画、ゲーム双方への「演出」として良い影響をあたえるでしょう。

◆ストーリー的な面のありきたりさ

ファントムは個体で「モンスター」であるだけでなく、その一部が人体を「汚染」することもあり、バリアーの出入りには厳密なチェックがあります。また、ファントムが発生してくる地球上に落下した隕石は「巣」と呼ばれ、軍事力による数度の殲滅作戦が繰り広げられた場所ともなっています。
スピリットの1つである植物を回収し、小隊ともども帰還したアキは汚染チェックを拒否しますが、それが問題となる前に恋人である小隊長が「汚染」されているのが発覚。アキは専門家としての技術を発揮してギリギリでそれを除去して見せます。

ですが中盤の会議シーンでファントムの巣を「ゼウス砲」によって殲滅すると主張する軍部に対し、スピリットによる「融和波動」の有効性を主張するためアキ自身がファントムに「汚染」されていることを自ら暴露し、それを「融和波動」によって封じ込めていることがあきらかになります。
暴走する軍部はことを単純に考えていて、ファントムを軍事力で滅ぼすことができると信じ汚染されているアキはただ単にスパイだと考え、彼女を守ろうとする小隊ごと捕らえてしまいます。
さらにあろうことか、ゼウス砲の使用を議会に決心させるためにバリアシティーのバリアの一部を解除して自らファントムを招きいれ、都市を滅ぼすきっかけを作ってしまいます。

この騒ぎの中、不思議な夢を何度も見ていたアキは博士や小隊メンバーにファントムは滅びた惑星の異星人や動物の文字通り「亡霊」なのだと説明します。
亡霊であるから地球の生き物の体を傷付けずに殺し、物体を通り抜け、生体エネルギーを帯びた武器で倒す事ができるというわけです。
そのうえ、地球の精神体である「ガイア」がそれに全面的な汚染を受ければ、人類を含めた地球そのものが滅びることも確実になります。
そしてこの一行は都市を脱出するのですが、このあたりはまるで「エイリアン2」でメンバーは1人ずつ見せ場を作った挙句、1人ずつ死んでいきます。

確かにこれがフルCGで描かれている仕事量には脱帽ですが、見ながら「こいつは次でこうするな。」というのがわかってしまい、「脇役は見せ場の後に死ぬ」「冒険者の相手は短絡で力を頼るが地位が高く、不幸のために屈折した人格」というありきたりさ以外に見るところがありません。

また前後しますが小隊メンバーの構成も、オールマイティーで男前な隊長、気は優しくて力持ちな体躯の立派な黒人軍曹、白人でメカに強いが口数が多く、女にすぐちょっかいを出すが実際にはいつもそばにいる女性を想っている細身の青年、そして髪を短く切りそろえ、女だてらに隊長にはっぱをかけるタフだがやつぱり頼りなげな側の青年を想っているアネキ、というありきたりな、よく言ってバランスの取れた構成です。
そして彼らが死んでいくシーンは「死相が見える」といってもいいほどあからさまです。
都市から脱出したアキ一行は、集める精神体の最後の1つが敵であるスピリットであるという発見のため、スピリットの巣へ決死行を行う準備をすすめることになります。
しばしの憩いの時間の中、死線をともにくぐりぬけたアキと隊長は互いを確かめ合います。
(ここの描き方も、あまりにも使い古されたタイミングと描写です。後述しますけど。)

しかし脱出に成功したのはアキたちだけではなく、都市壊滅を招いた軍部の司令官も独りで逃れ、衛星軌道上に浮かぶ「ゼウス砲」の宇宙ステーションへ到達します。
どうやってか議会のメンバーも脱出しており、司令官の思惑通り議会は今回の襲撃に対しゼウス砲の使用を通信で許可してしまいます。

一方、最後のスピリットをファントムの巣の地表に確認したアキは、飛行機を博士に任せ隊長とバリアを装備した地上車両で降下します。
「最後のスピリット」は、亡霊であるファントムの個体が地球のガイアに触れる事によって「波動」が正常化した存在であり、それをアキが取り込む事によって「融和波動」が完成するはずでした。
ところが地表にいた目標は、ゼウス砲の砲撃によって消滅してしまいます。
同時に吊り下げていたワイヤーが切れ、アキたち2人の乗る車両は地表に取り残されます。

頼みの綱の「最後のスピリット」を得るため、2人はファントムが地下深く侵食し地球のガイアと接触しようとしているところへ降りていきます。
そして完成する「融和波動」。ですがまたしてもゼウス砲の砲撃のため車両は破壊され、2人を保護してくれるバリアどころか、波動を放射するための通信装置も失います。
ですがゼウス砲はこの砲撃で、負荷を無視して砲撃を実行させた司令官ごとシステムダウンし、衛星ごと崩壊してしまいます。
絶望的な中、迫ってくるファントムの触手がアキ(の下腹部)を突き抜けた時、アキは死ぬどころか、アキを貫いたファントムの方が「融和波動」によって中和されてしまいます。
アキが持っている「融和波動」をもっと確実な手段でアキに影響が出ないようにファントムへ伝える必要があることに気づいた隊長は、その身を引き換えにファントムとアキの間の絶縁体として「融和波動」とともにコアと思われる巨大なファントムに飲み込まれます。

かくしてファントムは全て浄化され、亡霊の去った清浄な地球が取り戻された、というのがストーリーラインです。
しかしこれ以上説明が必要な事柄があるとは思えません。

◆「爽快感」のないエンド

終盤に見ていてカタストロフがあるのは、愚かな司令官とともにゼウス砲が崩壊するところくらいで、あとはどこかで見たような悲劇とハッピーエンドが半々のエンディングとなります。
「FF」という名を冠した物語としては、ダメージに「9999」などと出力される大決戦を繰り広げるゲームのそれにくらべると、偶然と幸運で受動的に解決してしまい、そのうえ(他の都市や博士は生きているが)恋人は大儀に身を捧げ女性が独り残されるというラストシーンは、映画的にもゲーム的にも中途半端を感じます。
デス・スターの破壊とその戦勝叙勲式のファンファーレで終わる「STAR WARS」や、主人公が知りたい謎は解明されるとともに不可解な異界からの帰還がかない、子どもなりに成長した姿で締まる「千と千尋の神隠し」とは比べるべくもありません。

◆無責任な人間関係の「オチ」

これは個人的な感性なのかもしれませんが、SF物語の「オチ」の定番の中にあまり関心できないものがありFFはその1つを採用しています。
それは「女性が身ごもり、男性はその女性(と子ども)を守るために死ぬ。」あるいは「男が命を落とすが、実は子どもができた途端だった。」という「子ども残して男性死亡パターン」です。
これは単純に、ラストシーンで何かしらの屁理屈で小隊長が生き返るなどという話にしろという短絡的なことではありません。

はたして女性が映画なりゲームなりのストーリーを作った時、納得してこのパターンを使うか、と考えるとそうはならないと思いますし、男性がこのパターンのラストシーンを使うのは、とても消去法的で、男性として無責任が発露してしまっているのではないかと感じるのです。

物語の中でのリアリティーという観点で言うと、FFのラストで小隊長が「融和波動」をファントムへ伝えるため身を投げ出すシーンはその場では選択の余地がないのですが、ありきたりで「どこかでみたような」シーンの末がさらにこの「オチ」であることは、ラストシーンでのカタストロフを確実に削ぎました。
ラストシーン、小隊長の遺体を抱きしめて空を見上げるアキを見て「ああ、よかったね」と思えるでしょうか?
「この後、あなた大変だよ。」と思うのが一般的な感想ではないでしょうか。
この映画はハリウッド製にもかかわらず、そこにはハリウッド映画的な爽快感はありません。

付け加えるなら、終盤直前のアキと小隊長が慰めあうシーンは、すでにこのラストを予想させます。
これは抱き合って口づけを交わつつ2人ともに無重力のなかを画面フレーム外へ漂っていくというおとなしいものです。
ただ、「FF」というタイトルにゲームとしてのいまいましさを持つ親が子どもにねだられて見に来ていると、逆に蛇足だとか姑息だとか感じたのではないでしょうか?
とくにラストの「融和波動」の完成がわかるシーンと一緒になるとなおさらと思われるのですが。

ちなみにもう1つの終わり方とは「アダムとイブ型」で、ヒーローとヒロインが滅んだ世界に2人きり、そして2人の子孫が・・・というものです。
いずれも使い古された結末だといえるでしょう。
ただ、最近であるため思い浮かべられやすいかと思う「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版にして完結編「THE END OF EVANGELION」でずが、残った二人が救いようもなく理解しあう事が出来ない犬猿の仲、という点がひとひねりされています。
また手塚治虫の作品には、その2人から子孫が・・・ではなく、その2人が死んでその遺体によって有機生物がその惑星にもたらされて数億年後に・・・という、「ありきたり」から脱却した「アダムとイブ型」もあります。
このような姿勢こそ、どんなメカよりも実は「センス・オブ・ワンダー」なSFマインドのあるストーリー作りと言えはしないでしょうか。

◆冷酷な興行成績

劇場版「ファイナルファンタジー」は米国での上映が終了し、その時点で見込み収入の1/3しか達成できませんでした。
日本では10月の第1週でほとんどの劇場で作品が入れ替わり上映が終わります。
スクウェアは日本での上映終了を待たず、損失として計上した上で映画事業から撤退を発表し、「SQUARE PICTURES」のロゴが銀幕をかざるのは最初で最後となります。
技術的には高度でも「ゲームを元ネタとした映画の興行成績は振るわない」という定説を強化してしまう結果となったのは避けられない事実でしょう。

しかしストーリーテーリングという意味で、本作がヒットしなかった反省がゲームの「FF」に生かされれば、表現と物語という2本柱を持ったギガ・ヒットを生み出す土壌となかもしれません。

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