つれづれ雑記帖 Intelligent Century Earlybards
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投稿日付: 2004年 04月 18日 18:57
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@n01.itscom.net
タイトル: 2004-04-17

星も見えない終電あとの街をただ歩く。
ヒーリング・ミュージックを聴いて、寂しさに言い訳しながら。
未来、将来、明日、希望。
それは今日という現実に色褪せて砂のごとく滑り落ちて過去になる。
歌われる夢や愛や永遠なんて、たどり着いてみたけどありはしない。
砂の中にも星なんてなくて、何かの破片が傷をつけて涙と血を流す。
自分の力で得た日常と自己満足というガラクタで日々をしのぐだけ。

誰も行き交わない深夜の街を独り歩く。
歩いても、生きても、孤独であることを自分が思い知るように。
恋路、愛増、運命、出会い。
起きたかもしれないことは、振り向けば可能性があったというだけ。
なかったことは、起きなかったという現実以外のナニモノデモナイ。
どうしても帰りたい人がいない間は、己を騙せる流浪人でいいんだ。
心が耐えられるだけ耐えてれば絶望が側にいてもそのうち終わるさ。

現実の道と心の深淵の崖っぷちを歩く。
寂しさが心を枯らすのを感じるけど、今に始まった事じゃない。
達観、悟り、諦め、独り。
神田、神保、九段、靖国、半蔵、永田、赤坂、青山、神宮、渋谷。
貧富の差と幸と不幸の差なんて、比例しないのかもしれないけれど、
わかち合う幸せの前には、自己満足なんてガラクタでしかないのさ。
もっと不幸な人がいるのは知ってるけど嘆かずにしいられないんだ。

何かに出会えればそれはいい。想う人が幸せならそれでいい。
日常なんて、ちょっと心の支えがあれば、独りでいられるさ。
それを見失ったとしても、すぐ見つかるようなことで代えられる。
大丈夫、代えられるさ。手に取れなくても、明日にその幻をみてれば枯れはしない。


投稿日付: 2004年 04月 18日 18:55
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@n01.itscom.net
タイトル: 2004-04-17

政治に絡む事は書かないポリシーなんだけど、今回の派兵とその影響で起こったことには、あまりにもみっともないというか、あきれたというか、書かずにいられない。

この戦争を始めて、終戦したと主張するも、何百人もの死亡者*1を出し、挙句に、都市攻略戦*2を繰り広げている*3当の国の現国務長官は、「命がけで平和的解決に身を投じる国民がいることを誇りに思うべき」といったらしい。*4
また、フランスの新聞ルモンドでは、世界に関わろうとする日本人の世代が現れたと評価し、人質になった三人を無責任だと責めるべきではないとしている。*5

それに比べ、日本の政府の狭量さときたら、恥ずかしくなるほどだ。

政府は「みなを騒がせたのだから、命を大切にしてほしい。」とたしなめた。*6当人たちの自己責任を問えという声も政治家は上げている。*7
おせっかい、勘違いもはなはだしい。ある党の党首は、「費用を分担してもらう。」などと言った。何のための税金か!だとしたら、危機にあった国民の役に立たない軍備などに、税金を使わないで頂きたい。

自己責任や命の大切さ等々は、人質であった3人の家族が当人たちに言うのであれば、「日本の親」としてまだしもだが、派兵をして人質を取られる原因を作った政府が、それを言う資格はない。かえって「派兵で、あなたがたが命かげて行っていた平和的活動を無駄にしただけでなく、あなた方を危険な目に合わせて申し訳ない。自衛隊では救助もままならなかったのです。」と謝ってもよいくらいだ。

大体、人質3人が戻ってこられたのは、当の3人がいままでイラクに対して行っていた平和的活動、そのもののおかげだ。報道などの効果が後押しした部分はあるとはいえ、あの三人は、自分たちの行動そのものによって生還したのである。

派兵の意味に自信があるのであれば、それにまつわる人が害されるはずはないのだから、その件の最高責任者は「私が人質を代わろう。」と現地に飛んで、その活動の正当性を証明すればよかった。
いや、いまからでも日本政府のだれかがそうしてもいい。現地の苦労があって大変かもしれないが、大使や近隣国に設けられている大使館の大使館員*8が、人質に変わりになると言うくらい、海外の日本人を守る義務を、国民から税金を徴収している政府は負っているはずではないか。

今回の件でよくわかったのは、日本政府は海外の民間日本人をアクティブには助ける用意は、平和的であろうが暴力的であろうがない*9こと。そしてそのつもりもないことだ。自衛隊も同様。
海外の自国民の安全を守れていない分の税金を払い戻してほしい。それで渡航保険などをかけた方が現実的な気がする。

他国の人たちに対して、恥ずかしい国であることが、悲しいと思わせてくれる事件である。国際情勢の中で、抜いてしまった*10刀*11を収めるのが難しいのはわかるが、それにしたってその周辺での行動や言動を何とかするべきだし、考え方を正して頂くべき人たちが多すぎる気がするのは、私だけだろうか。
というか、そのように考えが変えられる人たちが政府を構成していれば、派兵などせず、今回の人質事件そのものが起きなかっただろう。

ちなみに、通勤で行く日本一の乗降客を誇る駅に、飛行機が突っ込んできたり、どこぞの集団がやったような散布事件を、テロリストが仕掛けてこないか不安な毎日をおくってます。

*1:兵士の人数しか発表していないらしい。民間の関連作業員や、NGOの死傷者を合わせるともっと多い。戦争被害者とすればさらにイラクの人々のなかの死亡者も上乗せされる。
*2:これをやってるのは戦争でしょ。
*3:4/17時点で、停戦中?
*4:ゴメンナサイ、又聞き。
*5:http://www.asahi.com/international/update/0417/011.html
*6:http://www2.asahi.com/special/jieitai/houjin/TKY200404160321.html
*7:http://www2.asahi.com/special/jieitai/houjin/TKY200404160314.html
*8:もちろん日本人の大使館員で。
*9:大使館に駆け込めば、まだしもだが。とはいえ拉致されたら大使館になんて駆け込めないわけだ。ビルが倒壊して閉じ込められても、テロで怪我をして入院してもやっぱりダメだし。自衛隊陣地に駆け込もうとしたら・・・?
*10:そもそも抜いたのが間違いだが・・・
*11:自衛隊


投稿日付: 2004年 02月 07日 03:48
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@n01.itscom.net
タイトル:

失った時、その価値に気づく。それは十分、もうわかったよ。

大事に思っていても、その時が来たとき、さらなる喪失感に押しつぶされる。
毎日は繰り返さぬ一瞬一瞬でしかなく、チャンスなどが巡るほど長くはない。
だからだよ僕のかたわらには、別れと見送りと、孤独たちが連れ添っている。

そう、命を失って惜しいことが無いことに気づいてしまった。
幸福に死ねるのなら受け入れてしまうかもしれない自分にも。
自己満足など所詮カケラ。その一瞬しか満たしてはくれない。

別に死にたい訳じゃない。だけど自虐的な己の中の深まる闇。
周りには光なく、薄っぺらでさびしがり屋の感情が漂うだけ。
そう打ち砕かれて失ったのだ。セツナイ空色の思いの輝きは。
失ったのだ。心から想う人が側に居てくれる黄色の暖かさは。
そう、あのとき、あの場所で、あの人で、もうとっくの昔に。
そう、あのとき、勇気も、度胸も、差し伸べる手をもろとも。

うろい行くは世にあらず。欠け行くは月でなく我の心なり。
正気ほどに正気すぎて正気に耐えがたく。
月と日の名を持ちたるも、日が代わる健やかな朝はこない。


投稿日付: 2004年 02月 02日 01:34
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@n01.itscom.net
タイトル: 紳士が多くて、すこしわがままがたりない。

後の祭り。後悔先に立たず。
座右の銘だろうといわれれば、否定もできない。
チャンスも、手の中から抜け落ちている。
僕には紳士が多すぎて、わがままが足りないのだ。
気づかないサインは多く、兆しを捕まえられないのだろう。
この先も、そうなのだろうか。


投稿日付: 2003年 11月 24日 17:52
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@n01.itscom.net
タイトル: 「マトリクス」サーガは、キリスト教圏では映像、ストーリーとも歴史に残るに違いない

面白かった。だけど三作まとめたシリーズとしてみると、物語の点では特に語り継ぐことがない結末だった。
日本で両論賛否が起きないのも無理ない気がする。結末の「大団円」が、日本人向けにできているわけではないからだ。
念のために断っておくと、映画を製作するという部分で、これが間違っているというつもりは毛頭ない。動員数がものを言う映画というメディアでのビジネスにおいて、日本などという狭く、人口も少ない市場を対象としないのは当然だからだ。

その「マトリクス」の結末は、キリスト教を文化や生活のベースに持つ人たちにとっては大団円だろう。
だが、ラストが近くなるにつれて「ここから、どうやってハッピーエンドにするのだろう?」と、前作までを見てからレボリューションズを見ていた人は感じたのではないだろうか。そして、大方の日本人は爽快感の感じられないエンディングを迎えることになる。
ネオとトリニティーは「マトリクス」の現実側とも言うべきマシン・シティーへ2人だけで向かう。そして"あの"過程と、結末を迎える。あのラストは、劇中で使われている用語から予想するべきだったかもしれない。

「マトリクス」という劇場映画シリーズがメインターゲットとする市場である西欧文明影響圏では、映像とストーリーの両面について、高評価されたのではないだろうか。マーケットとして公開されるその多くがキリスト教圏であり、その人々は「救世主」といえば当然、イエス・キリストだし、新約聖書におけるイエス・キリストの選択と、その結末に、人々は感動し、涙できる。ネオの選択と、その結末にも同様なのである。
念のために言っておくが、これは「忠臣蔵」の結末を、海外の人々が理解し難いこと対照を成す。エンターテイメントを受容する側の文化の基礎部分により、作品の評価も変わってしまう好例だと思う。
だから常々、海外で日本のアニメーションがもてはやされているとはいっても、かれらは日本のアニメファンが魅了される感覚とは、違う感覚で魅了されているはずだ。

マトリクスに話を戻すと、ネオは救世主だし、レギュラーキャラはみな西洋の神話から引用された名前で、物語も同様。かくしてネオはイエス・キリストのごとき結末を迎える。

作中世界では、人間をエネルギー源として稼動しているマトリクスを含むマシン・シティーはローマ帝国で、ザイオンの人々はキリスト教信者に見える。救世主は現れ、その命を捨てた救済により信じるものは救われるが、その時点でローマ帝国が崩壊するわけではない。
マシンは相変わらず人間電池を使っており、ザイオンの人々はマシンの行う過酷な絶滅戦=異端者弾圧からは逃れたものの、事態はネオの登場前とそれほど変わっていない。
同時に、一作目で「こんな世界から出たい」と愚痴るスミスを含め、つづく「レポリューションズ」や、外伝の「アニマトリクス」でも、あの世界のマシンは感情のある知性体として扱われており、ローマ帝国を構成する一般の人々と、ザイオンの現実世界での喜怒哀楽のある生活へ目覚め、マトリクスから逃亡した人々とが、救世主にとっては平等に「救われるべき対象」であることが描かれている。

「レボリューション」の結末で変わったのは、オラクルとアーキテクチャー、2者の行動基準が若干変更されたことと、「スミス」という壊れたプログラム、つまり長期稼動によるプログラムの矛盾やバグなどの累積から発生したと思われるウイルス・プログラムを、世界から取り除いたことである。
オラクルはスミスを「ネオの闇の側」といった言い方をしたため、「陰陽」のように見える。またアーキテクチャーが2作目のラストで、繰り返しその時々の「ネオ」が現れ、世界を救った事実が示されている。このことから、映画が扱った「ネオ」が今までの「ネオ」と異なったのは、逆説的に「スミス」が今までの「スミス」とは異なっていたためととらえることができる。
いままでアーキテクチャーとオラクルが投入した「ネオ」の役割は、マトリクスとザイオンのバランスを取ることであった。
だが、今回はそのバランスを取るだけでなく、「スミス」をマトリクスとザイオンという天秤のつりあいから取り除くことができないという事態となった。
そのために今回の「ネオ」が必要とされたが、「いままでにないネオ」であるため、アーキテクチャーもオラクルも自分たちの持つ方程式(プログラムと変数)では未来を構築できず、「レボリューションズ」のラストで、アーキテクチャーはオラクルに「危険なゲームだった」と言うのだ。(この2者はプログラムであるから、「予見」「予測」は「計算の解」であり、人間が「予見」「予測」という言葉から受ける印象の「未来予測」よりもはるかに正確である。あるいは、彼ら自身の計算結果に従って、マトリクスを調整することだって可能かもしれない。)
これらのことからも、ネオはオラクルとアーキテクチャーに利用されたように見えてしまう。

だが、新約聖書的な視点で見ると、オラクルとアーキテクチャーさえどうしようもなかった世界の崩壊を、ネオが「救世主」として救う、という時点ですでに感動作なのである。この「救世主として救う」というところがポイントだ。
生身の人間とマシンが積み重ねてきた「ゆがみ」の現実化である「スミス」を、自らの命を差し出して取り除き、将来に向かって人間とマシンの仲介も成し遂げ、天に召される。
オラクルが「いつかまたネオに会える」という意味は、人間とマシンが地球上で「知性体」として活動している限り、「スミス」は現れ、その時のための「ネオ」は必要とされ「再臨」するという意味である。これも新約聖書に描かれる復活に絡み、キリスト教文化をベースとして持つ人々にとっては、「締めの言葉」に相応しいセリフなのではないだろうか。

「日本のアニメを見て造られた」という情報と、「レポリューションズ」で繰り広げられるドラゴンボールを思わせる戦いが、「今回のネオ」がマシンとの戦いに勝ち、「いままでのネオ」にはできなかった、ザイオンを救い、トリニティーと結ばれるというハッピーエンドを、日本人に無意識に期待させる。
キリスト教圏では、それが結末で新約聖書に収束することで、見ている人々の期待を「良い意味で裏切る」。「日本のアニメをベースにしていても、その物語には哲学があり、映像としての革新性と、物語としての崇高さが組み合わされた、すばらしい作品」と評価されるだろう。(そのことをわきまえた批評であれば、日本でも好評をつけるかもしれないが、日本の、この映画を娯楽として受容する一般の人に伝わらないだろう。)
日本では、その宗教観を前提とする感動が起こらず、ドラゴンボール的なハッピーエンドを期待したままエンディングに突入するため、「期待したハッピーエンド」にはならずに「悪い意味で期待を裏切る」作品になってしまった。そして、口伝いには「実写俳優で、ドラゴンボールをやっている映画。」という酷評を受けるのである。

ということで、単純にこの映画を楽しむときだけ、宗教的な感動に反応できるとよかったのに、と思ったし、文化・思想の基礎というのは、意識する/しないに関わらず、表出するものだな、と考えた。

なお、新約聖書になってしまった一因は、コミック版「攻殻機動隊」一巻のラストで同作の主人公が、最も調和が取れた存在を「天使」として見るシーンではないだろうか。
もちろん、作者の士郎正宗がそれをもって特定の宗教を持ち上げようとしているわけではない。
だが、「マトリクス」が日本のアニメの「絵」の面だけでなく、観点の違いから、日本のアニメから影響を受けて、物語のエッセンスとして新約聖書が滑り込んだ可能性もあるのかもしれない。
日本人のだれもが「攻殻機動隊」に新約聖書を見ないにもかかわらず、キリスト教圏の映画監督は、そこに新約聖書を盛り込んだ。それは作品を受け取る側の文化的差異により、作品の評価内容が、実は異なることの証明な気がする。


ところで、フルCGで起こした役者が空中戦をやるシーンは、CGアニメーションであって、マトリクスは実写映画とは言い切れない「ハイブリッド映画」というべきだろう。
また、まじめに「ドラゴンボール」を人体の規格で表現したため、空中戦のシーンは派手だが、こっけいなポーズが多い印象をうけた。絵的には、「ドラゴンボール」の方がカッコイイ。エンターテイメントとしての「うそ」で楽しませてくれているのは、鳥山明の真骨頂と言うところであろうか。


投稿日付: 2003年 04月 30日 00:26
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@246.ne.jp
タイトル: 特番からつらつら思ったこと。

連休中にエイズに関する特番を見た。ドキュメンタリーには定評のある放送局と番組である。
番組の趣旨が間違っていないので良いのだが、教える側と教わる側とも重要な点を教育論ではないからといってすっ飛ばしていた。
ゲストには高校、大学かフリーターらしい15人ほどの観客と医師や実際にエイズを患っている方がいらしている中で、キャスターが区切ったときに「エイズについて教わっていない。」ということから性教育の偏り/不足を結論の一つとしてまとめていた。

▼ 教える側の問題
ゲストの若者たち(20歳未満ばっかり。かな?)が「コンドームの使い方は教えられたが、エイズに関しては教わらなかった。」というのを受けて、性教育がしっかりしていないというのは確かである。ここで致命的な点は、教える側が「知らない。=しない。」だと勘違いしていることだ。これは別にエイズに限ったことではない。
セックスに関して言えば、古来日本では男性は15歳で元服だし、それは華族・武家だけではなく一般農民の間でもそこから大人で、通過儀礼の風俗があったわけである。もちろん身体的に跡継ぎをもうけて家督を継ぐのに15歳で成り立つ。 その身体機能をもっている者に対して、情報を与えなければ手を出さないなどというのはまったく根拠がない。
エイズに到達しない話の中で、避妊具の使い方を説明書的に教えるだけでセックスをどうするかは欠片も伝えていないだろう。男は本能でしたいことをするので行為に及ぶだけなら敷居は高くないのだが、相手を思いやった関係の結び方でないと人間関係自体が長く続かない。離婚率が高まるのは必然かもしれない。(女性がそういう場面でどう感じて、どう考えて、どう行動するかは、私は男だから断言できないので触れない。)
そのうえで「セックスを知らなければセックスをしない。」→「セックスをしなければエイズは感染しない。」→「感染しないエイズについて教える必要はない。」という自己弁護を、教える側が建ててしまうのはある意味二重遭難である。
だが少年少女たちは、恋心と好奇心と自分の身体を試したくて行為に及ぶ。そのための情報を社会はコンビニで、ビデオで、TVで伝えている。それもそっちの方だけ。

▼教わる側の問題
根本的に、情報収集するという思考がないのは問題だ。行き着くところは教える側、しつけをする側の問題になってしまうが、教わる側が情報を「教えてもらえる。」と思っているのがよくない。
情報は自分で収集するか、情報が自分の方へ流れてくる環境を作り上げなくてはならない。それを成り立たせるのは単純に言えば人間関係であるのだが、それが未熟なうちは情報を与えるためと、そのことを学ばせるために教育はある。
その教育がヘボいのは論外だが、高校、あるいはそれ以上の年齢の者が「教えてもらっていない。」というのは甘えでしかない。その甘えに漬かっていなければ情報はいくらでもある。新聞を毎日読めばそれでだけで違うし、書店で見る棚をズラすだけでことはすむ。ましてや今のネット情報化社会である。
それを小学校、中学校で教えることができず洞察力のない、能動的な思考力が弱い子どもをそのまま中学・高校、そして大学や社会人にしてしまう社会構造には問題がある。

▼その社会がなくなる〜後天性免疫不全症候群−エイズ−の本当の脅威
羅病することによる命の危険と発病までの潜伏期間の長さによる自覚のない感染行為は言うまでもないが、エイズの本当に怖いところは社会全体を滅ぼしかねないところにある。
日常生活での感染ルートは性交渉くらいしかない。この点で言えば、患っていることで差別するような事態は許されない。インフルエンザや風邪で熱があるのに休暇も取れず、うつす危険を顧みずに出社しなくてはならない会社ばかりであることのほうがよっぽど重罪だ。セックスをしない付き合いの方が、大方の他人とは普通なのだし。
だが性交渉に関することを裏返せば、子孫を増やす行為をできないということだ。子孫が増えない社会が発展することはありえない。
医療によって当人は生きていくことができるようになって前進だが、それは本当に一歩目でしかなく、エイズを克服した、あるいは人間にとって日常の風邪くらいの存在にコントロールできるようになれば解決に近いが、それはまだはるか遠くだろう。
この恐ろしさを伝えなければ意味がない。「うつっちゃっても生きていられるんだ。」などと思われては元も子もなくて、番組内でもそういうコメントを言った若者に、羅病しているゲストが釘をさす一面もあった。

本質を考えない人口ピラミッド上部の人々に、考える能力のないすぼみ人口層の若者たち。やな社会ですわ。
で、ドキュメンタリー番組ではこの某局に限らず、プロデューサー(あるいは放送作家)の結論ありきで作られる番組も多い。この番組では「エイズ患者の差別はダメ」という趣旨は間違っていないが、それに至るプロセスには熟考はなかった印象を受ける。
情報を受容するときは、なんでも鵜呑みにしないで租借しましょう。


投稿日付: 2002年 11月 13日 17:37
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@246.ne.jp
タイトル: 連載「わたしのアニメ文化論のようなもの。」第5回
■ 「エヴァ現象」表の事象/アニメ・キャラクタービジネスの変化


ここで時間をさかのぼるのをとめて、ひとつの「区切り作品」について3回ほど使う。
あとで「機動戦士ガンダム」でも同じ事をすると思われるが、まずは「新世紀エヴァンゲリオン」である。

「エヴァ」はいままでのアニメの演出・ストーリー進行の方程式を覆したり、心地よい部分は拡大してみせて成功した。それはひとえに庵野監督の工夫の賜物であり、いままでの日本アニメの歴史あってこそではあったが、「まともな新作アニメ」の創り方において様々な波紋を呼んだ。そこまでは「作品で語る」クリエイターの健全な面の事象である。

だが「エヴァ」は日本アニメの歴史などを知らない人たちをも巻き込んでムーブメントとなった。それはバブルの夢が破れ、にもかかわらず金銭による価値基準が個人に対してまで適応された閉塞感と、世界観の説明が十分ではない上、主人公も事情など知らないままに戦い、人の生死に一喜一憂し、(金を稼ぐマシーンとしてではなく)一人の人間として周囲に認めてもらう努力を泣きながら続けるシンジという主人公がシンクロし、共感が集まったからだ。
この側面はエヴァに関わったクリエイターたちには幸いであったろう。「機動戦士ガンダム」と同様に、人と才能と時期がクロスした幸運によって歴史に残る作品を世に出すことができたから。そして同時にブームを起こすという点で、這いつくばって製作した一年間のシリーズを越えることが半年シリーズでも可能だということがわかった。話数の長い金のかかる企画を持ち込んで、門前払いされたり途中で打ち切りや放映時間変更を喰らう可能性の少ない方法が、このとき「エヴァ」という成功例によって提示されたのである。

そしてスポンサー側も「一年シリーズ」という呪縛から逃れた。一年より半年のほうが提供で出す金額は当然安いし、半期ごとなら一年の決算の中で上期下期それぞれで取り返すこともできるからだ。「一年やつてみてダメ」より「半分ダメでももう一方で」という安全装置といってもいい。
また、いまではDVDとなった「放映後に発売する映像媒体」も話数が半分になることで価格が下がり、社会人がちょっと工面すれば買える価格帯で「全話収録」を商品として扱えるようになる。コレクターしか手を出しそうになかった高額コレクション商品は、特典をつけるなどはするものの販売数のランキングに登場するような多量販売アイテムとなった。これは買う側にとっても、心に残る作品を自分の手元に完全な形で持つということを容易にした。
「期間の短縮(とそれによる経費削減)とアイディア勝負」によって製作単価の下がったアニメは、短縮された分を別作品で埋める事で薄利多売時代へ突入する。それは2000年を迎えてさらに加速し、週に放映されるアニメ番組数は50を軽く越え、2002年現在にいたって70本を超える事態を迎えている。

エヴァ以降、単価の下がったアニメーションの価格は、さらにTVキー局の影響で深夜へ移動することでさらに下がった。キー局はアニメよりも市場規模の大きい番組を多数持っており、その上で放映枠の価格を提示するれば、安くつく深夜帯へ放映枠が移っていくのは自然な流れであった。とうぜん、対象とする年齢層がビデオデッキくらい持っているだろうことは検討済みであったろう。
このように市場は、エヴァ・ブーム以降「全話LD/DVD」の数万円やキャラクターグッズに継続して金を出す「大きなお友達」の層を発見してそこへ殺到し始めた。これらは後に、これまでも書いた深夜放送枠を逆手に取った「煩悩/刺激系」を作る開き直りへつながっていく。
とはいえ作品数が増えることは、話数が減ったこと、作品のシリーズ構成、話題になる期間、メディアミックスによる寿命、労働力の不足、クリエイターの不足、そして1作品の経済効果とその規模、といった様々なことがらを考える機会をつくり出し、その結果が'90年代末の良質作品を作り出す素地となった。それらの良質シリーズを放映後も全話DVDなどを購入することで、つまみ食い出来る視聴者はある面では幸せだといえるだろう。


投稿日付: 2002年 11月 03日 11:43
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@246.ne.jp
タイトル: 連載「わたしのアニメ文化論のようなもの。」
第4回 世紀末のTVアニメは未来志向だった。1995〜1999



前節でも書いたように区切りの方便上、世紀末と小見出ししているが扱うのは1999年までの作品である。とはいっても「新世紀エヴァンゲリオン」で前後と分けざるを得ないため、1995年で分かれる。

1995年までをさかのぼっていくと、意外とSF系が豊作だったのに気づく。
「癒しのガンダム」こと「ターン・エー ガンダム(1999/04/09 〜)」、CGメカの効果的な使い方を提示し、版権元企業の資産の再利用までも成し遂げた「ゾイド(1999/09/04 〜)」、青少年少女たちの真剣な悩みと踏ん切り(成長までいかない。描かれた期間は短く「成長した」ではなく「成長することを受け入れる」ところまでが描かれていたと思う)を極限とSFで描いた「無限のリヴァイアス(1999/10/06 〜)」、デザイナーのアイディア・マンぶりが「グラップラー・シップ」というガジェットで冴えた「星方武侠アウトロースター(1998/01/08 〜)」、そして久々に「これは残る。」と言える完成度を誇る「カウボーイビバップ(1998/04/03 〜)」
1997年まで下ると、2002年現在でもOVAで継続しているノリとお約束破りのバランスが絶妙な「勇者王ガオガイガー(1997/02/01 〜 )」、懐かしさが大半かもしれないが「超魔神英雄伝ワタル(1997/10/02 〜)」、ゲームとのタイアップでゲームのアニメーションシーンが良くできていた「VIRUS(1997/10/02 〜)」がある。
1996年には、放送局のポリシーと製作サイドのセンスがバランスしたおかげで楽しい作品になった「YAT安心!宇宙旅行(1996/10/05 〜)」、SF/ロボットアニメのオマージュとして記念碑的作品「機動戦艦ナデシコ(1996/10/01 〜) 」、完成度は高くブランドの重さに耐えようとした「機動新世紀ガンダムX(1996/04/05 〜)」、巨大ロボットモノで美しさを実現し、破綻すれすれのラブストーリーを取りまとめて楽しく見せてくれた「天空のエスカフローネ(1996/04/02 〜)」
そして日本アニメの転換点となる「エヴァ」が放映された1995年には、ようやく別路線として新ニーズ開拓を成し遂げた「新機動戦記ガンダムW(1995/04/07 〜)」と、SFアニメにジャンルわけできる作品が多い。

この時期は前年の1994年に「機動戦士Vガンダム(1993/04/02 〜)」からバンダイ&サンライズでリアル路線ロボット・アニメに再び力が入り始めたところで、さらに前年の1993年タツノコプロのアニメ化による「無責任艦長タイラー(1993/01/25 〜)」が原作小説の読者層に、原作とは異なるアプローチのテレビシリーズが好評を得ることができたこともあり、SFアニメが商売として得るところがあると業界が群がり始めた時期でもあった。この背中を「エヴァ」が押したのである。
この後はなだれである。ここまでにあげた作品は見るところがあったが、それ以外にも宇宙船が飛び回り、主人公は理由も苦労もなくヒーローで、胸がこぼれそうなプロポーションとコスチュームの美少女(後で問題として述べるが、決して「美女」ではない)がやたら出てくるどうしようもないスペオペは、上げる気にならないほど製作・放映されている。(進行形!)
分母が大きいからこそ実った数も多めになったのかもしれないが、新世紀まで継続してしまう「煩悩系/刺激系」路線でくくってしまえるのが悲しい。「渋い」意欲作もあるのではあるが、お世辞にも楽しめた作品とは言えないし。

世紀末、「ドラゴンボールGT(1996/02/07 〜)」「美少女戦士セーラームーンSuperS(1995/03/04 〜)」といった少年少女を夢中にさせた正当スーパーヒーロー/ヒロインを失う市場が、「エヴァ現象」を見て本格的に「オタク」の財布から搾り取ろうと針路変更し、そのための作品を投入したのが1990年代後半であった。
そこから「残る」作品として「ビバップ」や「ガオガイガー」が製作され、アニメで星雲賞を受賞するという驚異を見せつけた劇場版「機動戦艦ナデシコ-The prince of darkness-(1998/08)」や、「カウボーイビバップ 天国の扉-KNOCKIN'ON HEAVEN'S DOOR-(2001/09)」も生まれてはいたので、混沌からの創造とはこういう事を指すのかと思ってみたりもする。


投稿日付: 2002年 10月 19日 22:36
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@246.ne.jp
タイトル: 連載「わたしのアニメ文化論のようなもの。」
第3回「不景気の中での娯楽の宿命」


日本経済はどん底である。持たざるものの収入は細り、持ちたるものは使わないで溜め込み、金回りが悪くなって硬直化した金融システムは税金を政府に投入してもらうことで一般消費者にバブル期のツケを払わせている。
役所や政治家は自分の食い扶持レベルで困らないために景気対策も失業者対策も本腰が入らず、アメリカ経済も回復しない現状で不景気のアリ地獄の中で沈みつつある。いや、もう恐慌という顎にとらわれているのかもしれない。
公金投入などより、銀行をちゃんと資本主義競争にしたがって潰すか、徳政令でも出せばいいのに。

まじめな意見を言うと、消費税を廃止して消費者の購買意欲を立て直し、企業には法人税減税を行う一方で社員への残業代、賞与などをきちんと払わせることで源泉徴収での税収回復を図ればよい。窓口を機械に任せて一般消費者への店頭対応がぞんざいなのにもかかわらず、高い手数料を取り貯蓄に利息をつけない銀行などほおっておいて、まずは経済のの血流を取り戻すべきだ。

といったご時世の日本では、どんなに疲れ、ストレスで押しつぶされようと娯楽や息抜きは悪者扱いされる。趣味とかホビーとか言い換えても同様だ。(景気が良くたって日本の経営者階級人たちは、労働者に賃金も休みも与えたがらないのではあるが。)
そんななかアニメも例外ではない。それは大方が作り手側の経済的理由であり、それは主にアニメ番組が単体で利益をあげるのではなく、周辺の関連商品で番組制作の投入金額を回収するというビジネス・モデルのためである。アニメ作品の制作は「投資」なのだ。
そのビジネスの中で危険度をなるべく低くして見通しの想定できる回収をしようとしている結果が、いまのアニメの問題点を引き起こしている。本来ならハイリターンが望ましいのは言うまでもないが、この不景気の中ではハイリスク・ハイリターンという博打に手を出すより、ローリスク・ローリターンであっても見通しの立つ収入があるほうがビジネスとしては健全だと考えられているのである。
ことの流れが「エヴァ」後の1995年以降から始まるため詳しくは後で書くが、このようなビジネス・モデルを実践しようとすると、人気があるのがわかっているキャラクターで、提供する場合の価格の安い深夜帯に、財布の紐がゆるいオタク層にうける煩悩系/刺激系(色事、暴力ごと)で、絵にはこだわってもシナリオやそれ以外のスタッフ・ワークはケチるということを、帳簿上でビジネスしている人たちは実行してしまう。
「千と千尋の神隠し」でドイツの映画賞を受賞した際の記者会見で宮崎駿監督が憤っていたのも、そういうアニメがあまりに多いからだろう。ちなみに最初に記者会見が放映された後、この怒っているシーンはいずれの放送局においても二度と放送されなかった。放送局の配慮というものだろう。もちろんこのような配慮が腐ったサブ・カルチャーの温床なったり、行き過ぎ報道や行き過ぎ番組作りを容認することにつながるのは言うまでもない。
当初、不景気から提供企業が数・金額ともに減少したために深夜枠へ流れてしまったアニメ番組を、深夜枠ということを逆手にとってダーティーなビジネスにしてしまったのが深夜枠アニメの現状であり、冒頭で目を覆うばかりと書いたのはこのためによる。
いずれも不景気の中でのビジネス上の努力であるのは認めても良い。美術的なものを求めることはないにしても、そこから質の良いと言えるものは決して生まれない。宮崎アニメを望んで深夜枠アニメ提供につく企業は必ず裏切られるだろう。まともな企業なら深夜枠のアニメなどに提供をするほど、頭のやわらかい偉いヒトがいるとも思えないから実害が出るとは思えないが。
深夜は大人の時間であり、ビジネスでは色と欲の深遠な駆け引きの時間であるらしい。色を好む側が一方的に巻き上げられている気もするけど。個人的には夜は損得なしに一緒にいてお互い嬉しい異性と過ごしたいものである。

逆に質がよいことを言及しておかなければならないのがNHKのアニメである。再放送も多いが、放送局の方針からも幼い子供がみて害にならない、どころか笑い楽しみながらヒトとヒトの関係の面において情緒教育にもなるかもしれないほどのクオリティーを持っている。
重さのある人間ドラマはなく「カスミン(2001/10/13 〜)」「おじゃる丸(1998/10/05 〜)」(いずれもNHK教育)「だぁ!だぁ!だぁ!」(NHK BS2 2000/03/28 〜/地上波は常に再放送/原作アリ)などは執着を持って見ることはないが、たまぁに時間が空いていてお茶でも飲みながら見るとほほえましくて心温まる。いや、ほんとに。


投稿日付: 2002年 10月 14日 10:48
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@246.ne.jp
タイトル: 連載「わたしのアニメ文化論のようなもの。」
第2回「直近のアニメから」


21世紀は2001年から始まったわけだが、区切りのよさというところで2000年からのアニメを取り上げる。べつに「2000年、新世紀おめでとう!」といってしまった色白な人々に迎合するわけではない。ただゼロからカウントしたほうがすっきりするというだけだ。

序で書いたように最も近いところからいくと、まずは「機動戦士ガンダムシード」である。

わたしは「ガンダム」というジャンルにおいては、「ファースト」のファンである。メカ・マニア少年アムロ・レイが巻き込まれ型に始まり、ニュータイプとして覚醒していく日本のエンターテイメント界屈指の名作で経済市場としての基盤になるほどで、この関連でメシを食っている人間は数千人では効くまい。
それ以降の「ガンダム」の名を冠した作品は、多かれ少なかれすでに優れた青年がヒロイックに活躍する「白いロボット主役アニメ」に過ぎない。「機動戦士Zガンダム」のカミーユ・美談、・・・失礼、カミーユ・ビダンはアムロに比べて優れているとは言いがたいといわれそうだが、アムロがハロを組み立てることに対し、父親の実のモビルスーツの図面から、スケールは人の等身大程度とはいえ実用に耐えるモビルスーツ(作品内の用語を使えば「プチモビ」)そのものを作り出し、学校のコンテストで優勝するうえに、士官学校出身のエリート(不幸なジェリド君のことだ)を叩きのめしてしまう空手の腕前も持つというのは、尋常な少年ではない。ちなみにアムロは、メカに対しての素養はあったしニュータイプとして開花したが、序盤ではブライトの平手打ちをよけることもできない運動音痴であった。
以降の「ガンダム」ではそのような前置きの日常シーンすらなく、主人公とその周辺のメンバーは最初から、名は馳せていないもののトップクラスのモビルスーツ・パイロットだったり、親からサバイバル訓練を受けていたり、国家代表の格闘家だったり、特殊任務のために育てられた疑いさえあるエリート少年だったりする。

そう、今回のガンダムの主人公は久しぶりにアムロ・レイに近い位置から始まる「一般人スタート」の成長物語なのである。「ナチュラル」「コーディネーター」という区分けの中で、遺伝子操作された優秀なヒト−「コーディネーター」としての能力は見せているが心理的には少年だし、彼より優れたコーディネーターはすでに何人も登場していて物語世界の中で「主人公=超越能力者」ではない。おそらく主人公には何人もの超えていかなくてはならない先輩格がいて、それがドラマを広げていくだろう。
「ガンダム」というジャンルについては別の文章を書く必要があるほどだか、ここではこれでやめておこう。

さて、新ガンダムが始まる中で他にも目に付いて初回放送などをエアチェックした番組がある。ここ2年程は情報誌を買ってみていてもエアチェックなどする気も起きなかった。(仕事柄の知識としては仕入れているがそれとは別。ケーブルTVなどの有料契約回線の視聴はしていないので、「オーバーマン キングゲイナー」など見たくても見れないので扱わない。フンっ。)
その目端に引っかかったのが「ヒートガイジェイ」「超重神グラヴィオン」「ギディグレイド」だった。しかし三本ともいまこの瞬間にはなんとも言えない。
「ヒートガイジェイ」はCGワークとキャラクターデザインにハードボイルド風味と世界設定のアイディアが組み合っていい味を出している第1話だったが、第2話が放映時間変更を食らって見られなかった。
「グラヴィオン」は第1話で自分好みではないことを発見。後の節で書くが、所詮深夜枠向けなつくりという印象。
で、「ギディグレイド」は「ヒートガイジェイ」と時間がかぶったため、ダブル録画が面倒くさくて切り捨ててしまった。

原作つきシリーズでは「サイボーグ009(2001/10/14 〜)」「PROJECT ARMS(2001/04/07 〜/原作は「ARMS」)」はいずれも完成度が高く楽しめたのだが、いかんせん「マスターキートン(1998/10/05 〜)」と同様に原作再現度が高すぎて原作を知っていると退屈してしまう。「009」は作者他界のために未完となった「天使編」を作者の創作メモを元に作品化するという話がOVAに回されてしまったらしく、地上波プログラムとしてはちょうど今日(2002/10/13)の放送で最終回であった。
そういうことで久々に食指の動いた2002年秋改変だが、アクティブに見ているのは実のところガンダムだけである。

一方、2000年までさかのぼってみても印象に残っているアニメがない。作品で思い出そうとすると、最新ガンダムと同じキャラクターデザイナーだった「無限のリヴァイアス(1999/10/06 〜)」「カウボーイビバップ(1998/04/03 〜/TV東京版)」まで行ってしまう。前者は1999年、後者は1998年作品だ。ガンダム・フリークとして忘れてはならない「∀ガンダム」も1999年。ビバップは完全版のWOWWOW放送版や劇場版があるとはいえ、基本的には前世紀作品(!)である。
新世紀は始まったばかりとはいえ、まだ実りがない。おっと、2000年は前世紀か。
ちなみにIT業界にいたので、2000年の印象は「先人は苦労したが貧乏性だった。その職人芸に甘えていたダメな日本(経済)社会はIT経済で敗戦していてこれからもっとダメかも。」である。そう「コンピューター2000年問題」と技術流出の問題だ。だけどこれについてはまた別の機会があったら。


投稿日付: 2002年 10月 14日 02:23
名  前: あきら(管理人)
e-mail : count-a@246.ne.jp
タイトル: 新連載「わたしのアニメ文化論のようなもの。」第1回というか「序文」

いつになく版権元玩具メーカーがグループ一丸で力をいれて大手出版社や電話ベースの回線大企業が番組提供して、「機動戦士ガンダムSEED」("機動戦士"とそのあとを切り離し「がんだむしーど」と一気に言うのがトレンド)が始まった。
売り言葉として「新世紀の『ファースト・ガンダム』を目指す」という意気込みのとおり、シチュエーション的にも設定的にも「過去の作品のパクリ」と指弾されかねない中で、物語自体の真剣さとコンピュータ・グラフィックによる効果をうまく使ってダレない演出とストーリー展開が続きそうだと思わせてくれる。
「トミノ節ロボットアニメ」を見てきた目からすると、展開が遅いなぁ、という感想もありはする。とはいえ、この文章を起こしているところで第2話が放映されたばかりだが、ここしばらくなかった「まともな新作アニメーション番組」が始まったという印象を受けている。

ここで言う「新作」とは、オリジナル・テレビシリーズという意味である。楽しめた作品もなかったわけではないが、はっきり言えば「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」より後に発表されたアニメーション作品で、上に書いたような印象を受けたアニメはほとんどない。また「エヴァ」そのものも、その周辺環境、引き起こした現象にしても、かなり問題を持つ作品ではあるのだが、それはおいおい書く。

このような「まともな新作アニメーションがない」という現状は、特に深夜枠で目を覆うほどひどい。
夕方からゴールデンタイムにおいては、原作つきの安定株であり作品のできは良いが、それは「アニメ化」という面においてのテクニックが優れていてビジネス的にうまくいっているというのが実状であって、サブカルチャーとして根付かずに原作もろともブームが終われば忘れられる作品が多い。消費されていくだけなのだ。
言い換えれば、番組改変の時期に必ずある「なつかしの名作アニメ」といった番組において'70から'80代のアニメを押しのけて上位にランキングし、放映から3年、4年たっても番組改変のたびに思い出されるアニメーション作品がないということだ。

と、だらだら書いていてもわたしの感想文で終わってしまってつまらないと思うので、実際に年代と作品を引っ張り出して述べていこう。実作品名と年代を書くことで共感を持ちやすいと思う。
とはいえ、勝手ながら昔のことを思い出して調べるのが面倒くさいので、序盤は思い出しやすいように時間をさかのぼっていく方法をとらせていただく。
世界随一のWeb検索エンジン http://www.google.co.jp/ を使っても、クリティカルヒットで一発発見でないと書く気が削がれてしまうし。

わたしは日本のアニメーションが好きである。ただ根底にはスペオペやファンタジーといったラインを抱合する大きな枠のサイエンス・フィクション(SF)が好きだということがあり、日本でSF作品を堪能するためにはアニメーションはノベル、ムービー、コミックと並んで欠かせない表現手段だ。日本のアニメーション作品の質が高いことも間違いない。個人の好みは置いておいても押井守や宮崎駿の作品が数々の栄誉・評価を海外で受けていることを示せば、アニメを軽く見ている頭の固いお人もちょっとは考えをぐらつかせるだろう。
すくなくともわたしはそう信じている。自動車や家電ではなく、インスタントラーメンやカラオケ、そしてアニメで海外の評価を受けることを嘆くような堅物は、あまりお友達になりたくないものである。近年の中高生の学力低下は一緒に嘆くとしても。
話がそれた。人に評価されるされないとは別の部分で、センス・オブ・ワンダー、人のひたむきさ、冒険やスリル、そして宇宙や未知への開拓者精神を学んだ物語の中には、間違いなくアニメーション作品もある。だからかの富野監督が自ら「アニメは低俗だ」と言い放ってもわたしはアニメーション作品が好きで、サブ・カルチャーとして真剣にとらえるべきだと思っている。I think so.And you?


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