『戊辰白河口戦争記』を読む(5)世良修蔵の遺品
(2020年11月28日 ザ・戊辰研マガジン2020年12月号に掲載 最終更新2024年11月16日)
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は、傲慢な態度と会津への苛烈な処分方針で奥羽列藩の反感を買い、その暗殺が開戦のきっかけとなったというのが通説です。
世良暗殺にまつわる経緯については多くの書籍に扱われていますので、ここでは『戊辰白河口戦争記』で扱われている世良修蔵の記事を紹介します。
「奥羽人の世良参謀に対する余憤は70 年を経た今日なお熄まぬものがあるが、世良参謀の傑士であったということは誰でも称讃している。世良参謀が白河城に来たり市中・市外を軽装で巡羅し、その画策を練るのとき、誰も彼も参謀の胆力に服したものだと伝えられている。」
「西白河郡小田川村佐藤眞太郎氏の談によれば、世良参謀は、豪胆な人で、白河城にあるとき、小田川や踏瀬に往来して自ら用を弁じたものだという。参謀が福島に出発するとき、白河を出ると狙撃に遭った。参謀はただちに自らこれを殺してその首を十文字清之丞という者に託し白河城に送り、福島に向かった。そのとき、小田川を駕籠で過ぎたという。」
「記録に残る参謀の遺品調べは
一、刀一振
一、短刀一振
一、本込ニイール一挺
一、ピストル一挺
一、セコンド 一
一、蟇口 一
一、金五六拾圓
一、紺縞木綿単衣 一
一、蒲色風呂敷 一」
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白河住民の証言や遺品から見える世良修蔵の姿は、軽装で、従者1人ほどの他には兵士も伴わない単身行です。
慣れない土地、心を許せるわけではない奥羽諸藩の人士の中にあって、ほとんど単身での行動を続けていたということは、たいへんな緊張状態にあったのではないでしょうか。
奥羽人士に対して傲慢な態度であったというのは、そのような緊張状態の裏返しであったのかもしれません。会津追討を厳命と考え、現場での対応との間で余裕がなかったのでしょう。
白河で福島で、宿々で遊女を伴ったように伝えられていますが、緊張下の人間修蔵が女性の肌にすがることで精神をギリギリ保っていたとすれば・・・?
(奥州街道 芦野~白河~福島~白石)
修蔵は官軍の権威をまとってはいましたが、彼個人としては大変簡易な身なりで職務に献身的であったように見えます。
小田川(現在の白河市小田川〈こたがわ〉、白河町から奥州街道を北東へ約6km)、踏瀬(現在の西白河郡泉崎村踏瀬〈ふませ〉、白河町から北東へ約8.5km)への出張を自分でこなしたというのですから、精力的で「実行の人」だったのでしょう。その人間的な迫力は白河の人々も認めるところでした。
白河から福島に向かう途上で(これは修蔵の最後の旅でしょうか?)、狙撃にあったと伝えていますが、これが事実であったとすると、福島宿における「密書発覚」よりも前に世良暗殺の策動があったということになります。
狙撃者を自ら倒したとなると、ずいぶん際どい場面であると思いますが、修蔵は自分の行く手を警戒はしなかったのでしょうか? そのまま福島に至って難に遭うことになるわけで。
遺品については、所持品は極めて質素でした。(その他の物品は別行の従者が運んだのかもしれませんが。)
刀大小の他の、「ニイール」はミニエー銃(歩兵小銃)との注記になっています。(ミニエー銃は前装式のはずなので「本込〈もとごめ〉」とは? 後装式に改造されたミニエー銃という意味でしょうか?)
ピストルとセコンド(懐中時計)は士官用の装備です。時計は、一斉攻撃の同期をとるためなど、近代戦の必需品でした。一方奥羽列藩同盟軍はそのような用意が無く、各部隊の挙動は散発・個別となり有効性に欠けたことは、後の白河包囲戦で多く見られました。
「蟇口」がいわゆる「がま口財布」であったとすると、当時の日本においては珍しい、舶来品であったかもしれません。
「金五六拾圓」は不可解で、通貨単位「圓」は明治4年に制定されたからです。これは「両」の誤記とすると、現金だけはたんまり持っていたということでしょうか。
「紺縞木綿単衣〈こんしまもめんひとえ〉」「蒲色風呂敷〈かばいろふろしき〉」、これは当時のごくありきたりの普段着だと思います。軍装以外の私物はこれだけだったということになります。
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「戊辰白河口戦争記 学習ノート」
http://home.h05.itscom.net/tomi/rekisi/sirakawa/bosin/bosin-sirakawa.htm
【記者 冨田悦哉】