『戊辰白河口戦争記』を読む(4)庄屋・大庄屋たち
(2020年11月4日 ザ・戊辰研マガジン2020年11月号に掲載 最終更新2024年11月21日)

 白河市の天神町通り写真
 (白河市の天神町通り)

 大名がいなかった白河で、地元を代表して戦争に対応したのは、村役人である庄屋・大庄屋たちでした。
 庄屋(地方によっては名主、肝煎とも)は豪農で苗字帯刀である場合もあり、特権階級と思われるかもしれませんが、領主と領民の間に立って世話役を務めたり、村の年貢の完済に苦心して時には立て替えを行なったりと、けっこうな苦労役でもありました。
 大庄屋は領主から任命され、苗字帯刀の格式で、庄屋を数人から数十人支配しました。つまり数か村を束ねたある程度の地域を担当していました。

 これらの庄屋・大庄屋は、戊辰白河口戦争において、入れ代わり立ち代わり現れる奥羽列藩同盟軍(東軍)または新政府軍(西軍)への窓口となり、宿舎や人馬の要求に対応し、時には進攻部隊の道案内を務めました。それは場合によっては一方の軍から利敵行為と見なされて、暗殺・処刑の対象にもなったのでした。

 白河市町屋の土蔵写真
  (白河市町屋の土蔵)

 では、『戊辰白河口戦争記』に登場する大庄屋・庄屋をご紹介しましょう。

 ◆藤田孫十郎 大庄屋(白河町天神町〈てんじんまち〉)
  その親族の者が戦争の様子を証言しています。

 ◆根本 大庄屋(栃本村=現在の白河市東〈ひがし〉栃本〈とちもと〉)
  御用書留帳ほかの文書に当時の状況を書き残しています。 軍の食糧調達にまつわる「卵買い上げの事」「鶏取られの事」をはじめ、「篝火人足割り当て」「軍夫・人馬の差し出し」「戦災による租税扱いの事」の記事があります。

 ◆兼子 大庄屋(米=現在の西郷村〈にしごうむら〉米〈よね〉)
  会津藩の「日向大将」の記事に出る。会津軍の陣舎にされた。

 ◆白坂市之助 大庄屋(白坂村=現在の白河市白坂)
  市之助は江戸の御家人でしたが、養子となり白坂家を継ぎました。白坂村の大庄屋・本陣・問屋を務めました。 慶応4年閏4月25日、西軍の白坂進攻の際に拘束され、白坂宿のはずれで暗殺されました。何か東軍のために働いたと見なされての“見せしめ”といわれています。

 ◆内山 大庄屋(搦目=現在の白河市大〈だい〉搦目〈からめ〉)
  黒川の内山家とは親戚にあたります。 祖先の内山重濃は阿武隈川岸の山腹に、南朝の結城宗広・親光を顕彰する磨崖碑「感忠銘」を建てました。 内山粂蔵は、慶応4年6月12日の搦目付近の戦闘の様子を語っています。 「官軍の陣舎となり、昔から伝わっていた物はその際に散乱してしまった」「小銃弾丸の痕が座敷に残っている」

 ◆川瀬才一 庄屋(白河町本町〈もとまち〉)
  のちに白河県へ慶応4年5月1日の戦況を報告しました。西軍が町に突入してくる中の見聞といわれています。

 ◆内山忠之右衛門〈ちゅうえもん〉 庄屋(黒川=現在の西郷村小田倉〈おだくら〉黒川)
  黒川(那珂川へつながる水系)の舟問屋を営んでいました。 慶応4年5月1日の西軍による白河攻撃の道案内を務めたため、のちに会津軍によって拉致・処刑されました。道案内を引き受けたのは「年貢半減」という新政府の広報を信じたためとも伝えられています。私の先祖です。

 ◆阿部 庄屋(上市萱村=現在のいわき市三和町上市萱〈かみいちがや〉)
  輪王寺宮の旅宿となりました。

 ◆佐藤 庄屋(小田川村=現在の白河市小田川〈こたがわ〉)
  東軍の屯営所となり、炊き出しを行ないました。

 ◆水野谷 庄屋(大和田)
  東軍の会所(軍の合議を行なう場所?)となりました。

 ◆熊田 庄屋(白河町中町〈なかまち〉)
  会津軍による白河占領中に宿舎を提供しました。のち西軍が白河奪還したとき、会津軍の遺留品を差し出しました。

 ◆柳平 庄屋(蒜生村=現在の石川郡玉川村蒜生〈ひりゅう〉)
  明治元年11月の芸藩加藤善三郎による軍夫殺害事件の際、被害者側関係者として名前が出ます。

 ◆石井 庄屋(下羽太村=現在の西郷村下羽太〈しもはぶと〉地区)
  軍による人夫動員の記録、戦災による年貢の減免の記録を伝えます。

 ◆小針 庄屋(中畑村=現在の矢吹町中畑)
  軍による人夫動員の記録を伝えます。

 ◆箭内 庄屋(踏瀬=現在の泉崎村踏瀬〈ふませ〉)
  軍のための人馬継ぎ立ての記録を伝えます。

 ◆和知菊之助 庄屋(上羽太=現在の西郷村上羽太地区)
  戦災による年貢の減免の記録を伝えます。また戦後、『西郷復興記』という小冊子を出版し、戦災の労苦を伝えています。私の先祖です。

 ◆芳賀源左衛門 町年寄(白河町本町)
  白河町の本陣を務めました。戦争時、本陣は病院に当てられました。のち明治2年、戦時協力に対して苗字帯刀、五人扶持の賞が与えられています。

 ◆住山、大塚、大森 町年寄(白河町)
  芳賀・常盤とともに白河の町年寄を務めました。兵糧調達などの任に当たりました。

 ◆常盤彦之助 町年寄(白河町中町)
  常盤家は旧白河藩主阿部家(戦争当時は棚倉藩として東軍)とのつながりが強く、町年寄のほか問屋・道中取締を務めて勢力がありました。しかし西軍の白河奪還の後、薩摩兵によって拉致・暗殺されました。一家は白河を脱出して勢至堂(現在の須賀川市勢至堂)に避難しました。

 ◆大平八郎 (白坂村)
 庄屋ではなく地元の勤王家で、西軍による白河攻撃の道案内を務めた功により、二人扶持・白坂町人馬継立取締役となりました。 明治3年8月になって、旧会津藩士の田辺軍次の恨みを受け殺害されました。

 庄屋・大庄屋はその仕事がら、出来事を文書に記録しました。そこで地方の市史県史編纂においては、資料編などに収めてある場合が多いです。
 戊辰戦争についても戦争の様相を正しく知るためには、それら庄屋文書もよく参照する必要があるでしょう。  庄屋の記録が書籍になったものとしては、
  『隠された郡山の戊辰戦争~今泉久三郎日記より』(七海晧奘著・歴春ふくしま文庫)
  『慶應四戊辰日記~“わが家に薩摩兵が来た!”遭遇した庄屋の体験記』(石川町立歴史民俗資料館)
など例が少ないのが実情です。

 白河市の町屋写真
  (白河市の町屋)

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「戊辰白河口戦争記 学習ノート」
 http://home.h05.itscom.net/tomi/rekisi/sirakawa/bosin/bosin-sirakawa.htm

【記者 冨田悦哉】