歴史index 武蔵武士 人見氏   2016.11.16  改訂2024.08.28
その後の人見氏 (武蔵武士人見氏は鎌倉幕府滅亡後どのような運命をたどったのか)
冨田悦哉
『太平記』にある人見四郎入道恩阿の討死。しかしそれは、人見氏の「滅亡」ではなかった。
その後に続く、人見氏の歩みを辿ってみる。
 

・人見氏について
・『武蔵武士』の内容から書き起こした系図
・『武蔵名勝図会』記載の系図
・太平記に出てくる人見四郎
・丹波国 馬路(うまじ)
・人見という名字の分布について
・丹波国郷士としての人見氏
・丹波地方の支配者
・伊予国大洲藩
・大洲藩の人見氏
・幕末の勤王志士
・人見流棒術、人見流馬術
・『寛政重修諸家譜』に出る人見氏
・『寛政重修諸家譜』の「藤原支流人見氏」から書き起こした系図
・儒学者 人見竹洞(友元)
・『寛政重修諸家譜』に出る人見思義
・一乗寺の人見氏墓碑
・あとがき

  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。


『太平記』西源院本を底本とする兵藤裕己校注 (岩波文庫 2014年4月6 日 発行)
『太平記』流布本 (国民文庫本 明治42年8月5日発行)荒山慶一氏入力の電子テキスト版
『武蔵武士』八代国治・渡辺世祐著 有峰書店新社 昭和46年(1971 年)3月30日発行
『新編武蔵風土記稿』 平成8年6月20日 蘆田伊人校訂 雄山閣版
『武蔵名勝図会』 片山迪夫校訂 慶友社 1993年1月22日新装発行
『丹波国馬路帯刀郷士覚書~人見中川「両苗」郷士の存在形態と政治的運動』岡本幸雄著 海鳥社
『寛政重修諸家譜』続群書類従完成会

 
メモ
人見氏について

『武蔵武士』の内容から

武蔵七党の一つ猪俣党の河勾(かわわ)政基の子・政経が武蔵国榛沢郡人見の地を領して人見六郎と称した。系図では同じ猪俣党の岡部清重も人見を名乗ったようである。

Wikipedia「人見氏」から

人見氏は武蔵国幡羅郡人見邑を発祥とする一族である。本姓は小野氏。家系は武蔵七党のひとつ猪俣党の支流とされる。猪俣五郎時範の四世、政経とその従弟清重を祖とするという。

人見氏の遺跡

埼玉県深谷市には、「人見」の名の元となった仙元山(人見山)、埼玉県指定史跡「人見館跡」、および館跡の南約500メートルにある一乗寺には、人見氏累代の墓がある。

このほか人見氏についての収集資料は
 人見四郎(東京都府中市浅間山に墓跡が伝承される)についてのメモ を参照。



武蔵七党: 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。

猪俣党〈いのまたとう〉: 武蔵七党の横山党と同じく小野篁の末裔を称する。

人見氏: 武蔵七党のひとつ猪俣党の支流で、武蔵国榛沢郡人見を本拠地とし、人見六郎政経が地名の「人見」を名字としたことに始まる。

榛沢〈はんざわ〉郡: 現在の埼玉県深谷市の大部分と寄居町など。深谷市中心街や人見を含む。

幡羅〈はら〉郡: 現在の埼玉県熊谷市と深谷市の一部。

榛沢郡と幡羅郡は隣接している。(ちなみに総領猪俣氏・河勾氏の本拠は児玉郡・幡羅郡。)
埼玉県内で人見といえば、現深谷市の人見である。もと人見村>合併して藤沢村(榛沢郡)>合併して大里郡>合併して深谷市。なので人見村は榛沢郡である。
中世において幡羅郡の勢力が卓越していたとすると、人見村を幡羅郡にみなす考えもあったのか?



『武蔵武士』の内容から書き起こした系図

  小野篁……小野孝泰(武蔵守。横山庄祖)┬時資(横山介三。武蔵介)―(猪俣党)時範 ─ 忠兼 ─┐
                     │                           │
                     └(横山党)義考(横山大夫。武蔵権介)         │
                                                 │
  ┌──────────────────────────────────────────────┘
  │
  ├─忠基 ─(河勾)政基 ─(人見)六郎政経 ┬太郎高経………四郎光行(恩阿)― 行氏(丹波出雲村)
  │                      │     
  └(岡部)忠綱 ─ 清綱 ─(人見)清重   └小三郎行経……又七郎長俊(丹波馬地道)……友元(竹洞。江戸期儒者)



【この系図についての疑義】
『武蔵武士』には、政経の次子行経、其子高経、高経の弟行経、行経の孫長俊というように書いてある。
しかし、「政経の次子行経、長子高経」の誤記と判断して系図を作成した。
「太郎」高経、「小三郎」行経はそのままとした。
   
『武蔵名勝図会』記載の系図

  時資(横山介三郎)─ 時範(猪俣兵衛尉)─ 忠兼(野三郎)─┐
                                │
  ┌─────────────────────────────┘
  │
  ├忠基(野太郎)─── 政基(河勾五太夫)─ 政経(人見六郎。この人始めて人見村(*)に住す。是より子孫多し)───┐
  │                                                         │
  ├政家(猪俣小彌太)─ 資綱(猪俣小二郎)─ 範綱(猪俣小平太。保元平治の乱に先陣す。一の谷合戦に越中前司を討つ) │
  │                                                         │
  └忠綱(岡部六太夫)─ 行忠(岡部六郎)─ 忠澄(岡部六彌太。一の谷にて軍功あり。平忠度を討つ)          │
                                                            │
  ┌─────────────────────────────────────────────────────────┘
  │
  ├高経(人見小三郎。東鑑に見ゆ)─ 忠衡(人見四郎。平家物語に見ゆ。この忠衡より五代人見四郎入道光行)───────┐
  │                                                         │
  └行経(人見八郎。承久記に見ゆ)                                          │
                                                            │
  ┌─────────────────────────────────────────────────────────┘
  │
  └高行(人見六郎)─ 高綱(人見太郎)─ 某(彦太郎)─ 光行(人見四郎入道恩阿。元弘の乱に討死。太平記に見ゆ)



【この系図についての疑義】
(*)何の説明も無く「人見村」とあるが、政経が人見を名乗った初めであることから、多摩郡府中人見
ではなく榛沢郡人見のことであろう。

「高経(人見小三郎。東鑑に見ゆ)、行経(人見八郎。承久記に見ゆ)」とあるが、『承久記』には見
当たらず、『東鑑』に「小三郎」と「八郎」が出てくる。
高経と行経のどちらが小三郎か、また八郎は誰かは不明である。

『太平記』に出てくる人見四郎

【人見恩阿    ひとみ-おんあ】 (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
1261-1333 鎌倉時代の武将。
弘 長(こうちょう)元年生まれ。人見氏は武蔵(むさし)七党のひとつ猪俣(いのまた)党の支族。北条高時につかえ,元弘(げんこう)の乱で楠木正成(くすのき-まさしげ)の赤坂城を攻め,正慶(しょうきょう)2=元弘3年2月2日戦死。73歳。武蔵榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)出身。名は光行,基堅(もとかた)。通称は四郎。


『太平記』の人見四郎は、浄土信仰に支えられつつ自ら老残を処し、鎌倉幕府とともに滅んでいった武蔵武士というイメージで描かれている。しかし人見四郎の討死は、人見氏の滅亡ではなかった。
このへんの考察(というか妄想)は、
→人見四郎入道恩阿討死の意味について






弘長元年〈こうちょう〉: 1261年。
『太平記』の討死記事に「73歳」とあることから逆算したのであろう。

元弘の乱〈げんこう〉: 1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。楠木正成の赤坂城・千早城の戦いなどのエピソードあり。


丹波国 馬路(うまじ)

鎌倉幕府滅亡の後、人見四郎の子・行氏は丹波国出雲村に寓居したと伝えられている。

また、それよりも早い時期に、人見氏支流が丹波国馬路を領していた。


「丹波国南桑田郡馬路村(現・京都府亀岡市馬路町)は、亀岡(旧亀山)の北方約一里、大堰川東岸に接続する平地にあり、亀岡盆地のほぼ中央に位置する。」
(『丹波国馬路帯刀郷士覚書~人見中川「両苗」郷士の存在形態と政治的運動』より)





人見行氏
: 『新編武蔵風土記』に、家譜からとして「元弘年中平高時滅亡の後、領地を失い、丹波国高瀬郷出雲里に寓居す」という引用が掲載されている。
出雲村は京都府亀岡市の出雲神社付近ではないか。

丹波国馬路にある人見氏支流: 『武蔵武士』に「人見又七郎長俊は軍功によって丹波国馬地道を 賜り移住したという。」とある。
馬地道は馬路と思われる。この移住は承久の乱(1221年)後の新補地頭に伴うものと思われる。


人見という名字の分布について

インターネットのサイトを利用して名字「人見」の分布を調べてみた。
名字由来net <https://myoji-yurai.net/>
姓名分布&ランキング(写録宝夢崇) <http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/>

名字「人見」について、都道府県別での順位
〈名字由来netにより2016年8月24日検索〉

全国では 1155位 およそ15400人
東京都では 1213位 およそ1500人
埼玉県では
1313位
およそ700人
栃木県では
116位
およそ3000人
茨城県では
358位
およそ1500人
京都府では
204位
およそ2300人
岡山県では
380位
およそ940人

京都府では亀岡市と南丹市に集中している。
(亀岡市では15位、南丹市では26位)
栃木県では那須塩原市と那須郡那須町に集中している。
(那須塩原市では9位、那須町では10位)
〈姓名分布&ランキングにより2016年8月24日検索〉

※これらの数字は、かなり大雑把なものと解釈しなければならない。



名字由来net: 2015年9月時点の政府発表統計および電話帳データをもとにしている。

姓名分布&ランキング: 2007年10月までに発刊された全国電話帳をもとにしている。

名字「人見」の都道府県別分布: かなり大雑把なデータであるが、「人見」
全体の20%が栃木県那須地方に、15%が京都府亀岡市周辺に集中しており、これらが「人見」にとって強く関連のある土地であることがわかる。

今回検索してみて、栃木県那須地方での「人見」順位が高いことは新発見であった。
この那須人見は、那須地方において旧家らしい広がりが見られる。
その系譜はいかなるものであろうか。
本稿で追求している「武蔵国→丹波馬路変遷の人見氏」とは、別な流れかもしれない。
常陸国人見氏との関連有無も気になるところである。


京都府亀岡市周辺については、丹波国馬路が人見氏の拠所となっていたことを示唆する。

そのほか、茨城県と岡山県は、全国的に見ると「人見」の順位がやや目立つ。

茨城県については、平安時代に源義業(佐竹氏祖)の常陸国移住に従った武蔵国人見駿河守(本姓藤原)が祖とのことであるから、「
武蔵国→丹波馬路変遷の人見氏」とは別な流れである。

岡山県については系譜不明であるが、丹波亀山藩は備中国浅口郡(現岡山県倉敷市)に飛び地があったということであるから、
「武蔵国→丹波馬路変遷の人見氏」と関りがあるのかもしれない。

東京都については、比較のために掲げた。

埼玉県での順位は全国平均以下で、しかも
本来「人見」発祥の地である深谷市周辺での順位はごく低い。鎌倉幕府滅亡とともに、発祥地での人見氏の存在はすっかり排除されてしまったようである。

人見氏分布(全国)
全国での名字「人見」の分布 〈姓名分布&ランキングによる〉

人見氏分布(京都府)
京都府での名字「人見」の分布 〈姓名分布&ランキングによる〉

丹波国郷士としての人見氏

鎌倉幕府滅亡の後、人見氏は丹波国馬路周辺(現在の京都府亀岡市)を根拠地にしたと思われる。

以下は『丹波国馬路帯刀郷士覚書~』から一部を引用・要約。

丹波国南桑田郡馬路村(現・京都府亀岡市馬路町)は、亀岡(旧亀山)の北方約一里、大堰川東岸に接続する平地にあり、亀岡盆地のほぼ中央に位置する。
この地方には奈良朝時代の地方政治の中心であった国府(丹波国船井郡本庄村大字屋賀)が存在し、また、信仰の灯点ともなっていた出雲神社(一ノ宮)ならびに国分僧寺が南桑田郡千歳村にあり、したがって、馬路村は早くから開けた土地柄であったと言える。

こ こに言う両苗(両名・両姓)とは、人見、中川両苗一族を指している。この両苗の者がいかなる由緒を持ち、また、馬路にいつの時代より定住したものか、その真実を確証するに足る記録は十分に存在しない。その信憑性はともかくも、近世末(元治元年五月)に記された両苗の「由緒書」、その他の文書よりうかがえば、人見一族は、「人皇三十代敏達天皇四代左大臣橘諸兄」を、中川一族は「清和源氏新羅三郎第五男子中川刑部太夫」をそれぞれ祖とされ、共に由緒の古さを誇っている。
両苗の馬路定住はいつの頃であったかは詳らかでない。

人見氏の場合、その由緒書に、平安京遷都の際、および後の内裏焼失の際の竹木材のご用達など行ったとあり、明治八(1875)年京都府権知事代理宛の「式内月読神社御取調に付奉差上口上書」に、「万事不詳、先祖人見次郎貞村(二十三代)え北条相模守時頼より当社の守護を申附られ、当今迄連綿守護仕候」文書よりうかがえるように、人見氏は平安・鎌倉時代より馬路に居住していたものと考えられる。

中川氏の場合、中沢「根元記」によれば、「正中二乙丑(1325)秋、東山道中川の城主たりとて、源重光と名乗り、当国に落来り、当村の長家辻甚吉郎是をかくまひ置也、其後正慶歳年中(1332-33)に足利尊氏公当国篠村にて武浪を召集めたまふ時、中川禄左衛門尉重光と名乗り、尊氏公の御前に出仕す、則丹州舟井郡の感状を賜り馬路村に住す」とあり、「由緒書」によると「中川刑部太夫儀は、美濃国安八郡中川之庄居城爾時六郡を領す、其後十九代右近衛権少将、永禄四年辛酉(1561)五月織田信長之為に落城、右近衛権少将嫡子中務太夫共々自殺、其子二男四郎、三男五郎、叔父越中守と上洛す。同年美濃落城之砌、中川五郎、同越中守丹波馬路落住居罷在」云々とあり、室町時代末すでに当地に居住していたものと思われる。この定住の折「折々村方混雑有之、郷士共治之、右為礼と百姓共より郷士一族之屋敷四方堀を修復致呉候事」と記されている。

馬路に定住後の両苗は、その後累代血縁的結合を深めながら、両苗仲間の郷士集団を組織し、彼ら仲間・集団が遵守すべき規約「一族定」など設けて、両苗一族の結束を固め、郷村において郷士としての身分を誇ってきたものである。丹波における「弓者連中」=「地侍連合」の主要メンバーの一員でもあった。

丹波国馬路組(四カ村、約2148.7石)は元禄十一(1698)年五月幕府旗本杉浦内蔵允出雲守の知行所となったが、杉浦氏代々は主に江戸に居住し、丹波国の領地支配には京都を拠点に総支配役を常置し、現地代官所(陣屋)を馬路村に設けていた。そして総支配役のもとで現地の直接支配にはその地方の有力者を代官に任用していた。この任に主として人見家が当たった。

人見・中川「両苗」の「由緒書」によれば、その信憑性はともかくも、両苗それぞれの出自において輝かしい経歴を有している。……足利、織田、豊臣、徳川の天下統一過程における政変や幾多の戦乱にあっては、土豪・地侍・郷士としてそれぞれの軍役に奉仕し、時代の流れに巧みに対処しながら、中世から近世そして明治維新に至ることとなる。

両苗一族の中より時の権力に仕官し、武家奉公する者も少なからずいた。
たとえば、
・中川駒之助は出羽国秋田城主佐竹右京太夫の客分家老となった。
・豊後国岡の城主中川修理太夫の元祖中川清秀は中川一族から分かれたとされている。
・中川喜兵衛は松平参河守の四千石の知行取。
・人見助兵衛は竹中采女正の百五十石の知行取。
・人見祐九郎は相州小田原の三百石取で大坂留守居役とされている。








『丹波国馬路帯刀郷士覚書~人見中川「両苗」郷士の存在形態と政治的運動』岡本幸雄著 海鳥社














馬路の人見氏が武蔵武士人見氏を発祥とするのであれば、由緒書の平安時代の記事は古すぎる。

武蔵側には、「人見四郎入道光行の子行氏は、北条氏滅亡ののち丹波国高瀬郷出雲村に移住したという。」「人見又七郎長俊は軍功によって丹波国馬地道を賜り移住したという。」という伝承がある。
行氏の移住は鎌倉幕府滅亡1333年以降。
長俊は承久の乱(1221年)に参加した行経の子孫であり、「軍功による領地」とは承久の乱で京方から没収した領地への「新補地頭」であると思われる。
したがって長俊の移住は1221年以降、十数年の間の出来事ではないか。
ところが馬路側には、これらの移住に関する伝承が無い。これは不可解である。
武蔵側が偽りなのか、馬路側が意図的に隠しているのか。どちらかと言えば、後者の方ではないか。

鎌倉幕府の後、政権を取ったのは京方であり、足利氏であった。それら政権の近隣で「もと北条氏に仕えた人見氏」を名乗るのははばかられる。
そこで、鎌倉幕府滅亡後は馬路人見氏は武蔵武士の前歴を捨てたのであろう。
馬路人見氏文書にある由緒書には、平安遷都の昔から竹木材ご用達を務めたように書いてあるが、それは人見氏より前から土着していた民の履歴であり、人見氏が移住後に和合した民の履歴を自分の前歴に替えたのであろう。

平安時代後期に発生した武士は、自分の領地の地名を名字(苗字)として名乗るのが例であった。
馬路人見氏が平安以来ずっと馬路に住んでいるのであれば、その名字の元となった地名があってもよさそうなものだが、人見という字や山川は見当たらない。
平安以来ずっと馬路に住んでいる人見氏がなぜ「人見」を名乗るのか、まったく説明がつかない。
しかしながら、移住以前の履歴は捨てても、由緒ある武蔵武士の名としての「人見」は捨てられなかった、と考えれば納得がいく。
(馬路両苗の一方の中川氏は、「美濃国安八郡中川之庄」が出身地なので「中川」なのである。)


丹波地方の支配者

丹波国はいくつかの盆地とそれを隔てる山地からなる複雑な地形をもつ。また、京の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、都の政局に巻き込まれやすい国でもあった。

鎌倉時代末期、足利尊氏の北条鎌倉幕府に対する挙兵(元弘3年/正慶2年(1333年))は、桑田郡篠村(亀岡市篠町)においてであった。

室町時代は、数ケ国の守護を兼ねていた細川京兆家の領国(守護)。(守護代は内藤氏)
現地である丹波地方は、無数の「国人」と呼ばれる小領主たちによって支配されていた。
国人の中には武蔵武士の系譜を引くものも多かった。(承久の乱以降の新補地頭とみられる例が多い。)

応仁の乱(1467~1477)勃発。丹波が京の後背地であること、幕府の実力者である細川京兆家の守護国であることなどから、丹波国人は否応なく争乱に参加し、各地を転戦することになった。

細川政元(1466~1507)の死後に細川家内紛が生じると、丹波国人もそれを利用して互いに勢力を争うようになった。

やがて畿内では、三好一族や松永久秀の台頭により細川京兆家は没落。

その後、盛衰はあったが、戦国時代末期の波多野秀治(丹波国人)は、松永久秀・三好三人衆と戦って丹波一国を支配するほどの一大勢力となった。

信長と将軍義昭が対立するようになると、丹波国人の多くが義昭側に付いて信長から離反した。

以下、丹波亀山城主について。

天正3年(1575年)明智光秀が丹波へ侵攻。

天正5年(1577年)明智光秀が丹波亀山築城に着手。

天正7年(1579年)明智光秀により波多野秀治が討たれて、丹波が織田領になる。

天正10年(1582年)本能寺の変 明智光秀滅亡。
清須会議により 羽柴秀勝(於次)(与力:加藤光泰)

天正13年(1585年)豊臣秀勝(小吉)

豊臣秀勝が甲斐へ 以後様々な武将により短期間で城主が変わった。この期間に羽柴秀秋(小早川秀秋)もあり。

文禄4年(1595年)前田玄以

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い 前田玄以所領安堵 丹波亀山藩

一時期天領となる。

慶長14年(1609年)岡部長盛 丹波亀山藩(再立藩)

元和7年(1621年)大給松平家 松平成重

寛永11年(1634年)菅沼定芳

慶安元年(1648年)藤井松平家 松平忠晴

貞享2年(1685年)久世重之

元禄10年(1697年)井上正岑

元禄15年(1702年)青山忠重

寛延2年(1749年)形原松平家 松平信岑

明治2年(1869年)亀岡藩と改称



Wikipedia「丹波国」「丹波亀山藩」、および
「丹波戦国史~奥丹波を中心に」
を参考にしました。

細川京兆家〈けいちょう〉: 室町幕府管領である細川氏の嫡流。
「京兆」とは右京大夫の唐名「京兆尹」のこと。

国人〈こくじん〉: 在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士。戦国時代では城持ちの独立領主になるものも現れ、やがて戦国大名の家臣団に組み込まれていく。

このような丹波地方支配者の去就にともない、丹波国人
一族は、領地の防衛または支配者への臣従、戦乱への参加を行ったものであろう。

また江戸時代には、大名家への仕官と、大名家の転封〈てんぽう〉に追従することによって、他国への移住が行われたと思われる。

人見氏もまた、そのような状況の中で生き残ってきたはずである。


伊予国大洲藩

戦国武将加藤光泰は、天正10年(1582年)の山崎の戦いの功により丹波国周山城(京都府京都市右京区京北周山町)1万5,000石に増封された。またこの時期、丹波亀山城の羽柴秀勝の与力に任じている。

光泰は、増封につれて家臣団を補強しているが、「藩臣家譜」によると丹波国においても人見清治が召し抱えられている。
(その後加藤家の領地は、転封により畿内を中心に中国・四国地方と変遷した。最終的に伊予国大洲において大洲藩となった。)








伊予国大洲藩〈おおず〉: 現在の愛媛県大洲市を中心とする。加藤氏6万石。

加藤光泰: 生誕 天文6年(1537年)。死没 文禄2年8月29日(1593年9月24日)

羽柴秀勝: 織田信長の四男。羽柴秀吉の養嗣子となるが、天正13年(1585年)丹波亀山城で病死。

与力〈よりき〉: ここでは、秀吉による家臣統制の形態であり、補佐役でもあり監視役でもある。

大洲藩加藤家の家臣団形成: 三浦家文書研究会<http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/6700/>
(番外コラム「
大洲藩加藤家の家臣団形成」より)
「藩臣家譜」は、江戸時代文政期に編纂され、加藤家の知行取276家歴代1527人の記事が記されている。

人見清治とその子孫が「藩臣家譜」に掲載されているということは、人見氏が江戸時代まで大洲藩士として存続しているということである。

「大洲秘録」は、大洲藩主の伝記、家臣の記録、役職類、郷中、社寺、領内の村落の状況、農耕等を詳述して天保時代に及ぶ。
「大洲秘録」によると、光泰時代の丹波国からの給人は、禄高300石が1人、100石が1人となっている。

大洲藩の人見氏

人見氏ゆかりの家系図

(草創期)人見左衛門尉基胤
(「武州に住む、幾代もつずく」とある。のち丹波国馬路に移住か。)
(草創期)人見和泉 
(「丹州馬路邸生れ 之より人見家の系統を続く」とある。 丹波国馬路(現・京都府亀岡市馬路町)に生まれる。)
(初代)人見清治 
天正11年、加藤遠江守の家来となる。300石。御城普請奉行。
(二代)人見八良右衛門 
300石。大坂冬の陣。伯耆国から伊予国。町奉行。
(三代)人見七良右衛門直栄 
200石。

「大洲秘録」惣知行取人数寄(1745~65)に名前あり。

人見市右衛門(150石)
人見清治 (100石)







この家系図にある人見清治は、「藩臣家譜」の
人見清治と思われる。
武蔵武士の系譜をひく人見清治が加藤光泰の家臣となり、大洲藩士人見氏の祖となったのである。


基胤-清治の系譜が人見長俊に連なるものか、人見四郎に連なるものか、またはその他人見支流に連なるものかは分からない。



幕末の勤王志士

人見極馬慊甫(1835~1862) 別名:得能淡雲(とくのうたんうん)

天保六年(1835)十九日、大洲にて大洲藩士である父:人見十郎左衛門直一と母:河田采治正高の長女(名は麻)の長男として生まれた。幼名は亀吉と称し、後に石黒閑斎とも称した。幼少の頃に父を失い、それからというものの母の手一つで養育されたと言われている。

安政六年(1859)三月 藩命により江戸に遊学。弘庵塾の天山(弘庵)に師事。副塾長となる。

安政の大獄(1858)で師の天山が投獄される。(のち釈放)

帰藩したが、国事活動に参加するため脱藩。

文久二年(1862)二月四日、坂下門の変で余党として検索・捕縛される。

文久二年壬戌八月七日獄死。

明治三十一年、明治政府によって表彰。靖国神社に合祀。


大洲藩人見氏のずっと後の時代の話である。

幕末勤皇愛国の志士:得能淡雲 (靖国英霊)
<http://www.geocities.jp/konpakufusi/tokunou.html>

より

データベース「えひめの記憶」 愛媛県史 近世上 第二章藩政の展開 第六節大洲藩 九大洲・新谷藩の文教
表2-61 幕末期大洲・新谷両藩校外の諸学問就学者一覧 の中に人見極馬の名前が見られる。
つまり藩校ではないところで学んでいる者の一覧であるが、人見極馬が師事しているのは、漢学の藤森弘庵、大橋訥庵、近藤南海である。

人見流棒術、人見流馬術

斎藤伝鬼房が開いた武術流派「天流」(1581年(天正9年))の第4代人見熊之助は人見流棒術、人見流馬術の開祖ともされる。

天流(天道流)は、江戸時代には丹波亀山藩や薩摩藩以外に、仙台藩、秋田藩、会津藩、水戸藩、彦根藩、赤穂藩、中津藩など多くの地域に伝わった。


これは人見氏の「外伝」に類する話だろうか。

天流 - Wikipedia
<https://ja.wikipedia.org/wiki/天流> より

人見熊之助の出身は不明であるが、天流が丹波亀山藩に伝わっていることから、丹波人見氏に所縁があると想像する。
『寛政重修諸家譜』に出る人見氏

『寛政重修諸家譜』 巻1121 藤原支流人見氏の項に

(1)
寛永系図家伝を引て、その先武蔵国人見の郷を領するが故に家号とす。元弘年中北條高時滅亡ののち領地を失ひ、丹波国馬瀬郡出雲里に住居す。のち東條兵衛尉なるものあり。勢やうやく強大にして同国にをいて土地を領す。道徳にいたりてますます食邑を加ふ。男道加が時織田右府(信長)明智光秀をして丹波国を略せしむ。ここにをいて領地をうしなひ、退て洛西嵯峨に閑居す。子孫みな医を以て業とすといふ。

(2)
今捧るところの家伝に、小野氏にして河勾五郎政基が三男四郎政経頼朝将軍に仕へ、武蔵国人見村に住居し、人見を称す。五代の孫紀伊守長俊武名あり。丹波国桑田郡馬路村に居す。男東條兵衛道徳が時、郷族推て豪長とす。その男又右衛門道嘉細川晴元に属し、天文十四年三好長慶が兵と戦て討死す。其男又左衛門道西父戦死ののち、山城国嵯峨にうつり住すといふ。





これは『寛政重修諸家譜』に出てくる、武蔵武士の流れを伝え、丹波国を出身地とする人見氏の系譜である。

内容が異なる系図を並記しており、解釈に困る。
(1)の家伝では、
・北條高時滅亡時に武蔵国人見郷から丹波国馬瀬郡出雲里へ移住した。
・子孫は「東條」とも名乗ったようである。
・道徳のとき、丹波国において最盛したらしい。
道徳の子道加のとき、明智光秀の丹波国侵攻により領地を失い、山城国嵯峨に移住した。
・子孫は医師を業とした。
(2)の家伝では、
・武蔵国人見村の人見長俊が、武功により与えられた丹波国桑田郡馬路村へ移住した。
・子孫は「東條」とも名乗ったようである。
・道徳のとき、丹波国において最盛したらしい。
道徳の子道加(道嘉)のとき、細川晴元方に属して三好長慶と戦って討死した。
・道加討死の後、道加の子道西は
山城国嵯峨に移住した。

武蔵国から丹波国への移住、丹波国から山城国への移住の時期がまるで異なっており、人見長俊の流れなのか他流の人見氏かも定かでない。
武蔵武士人見氏を祖とするというばかりである。

『寛政重修諸家譜』の「藤原支流人見氏」から書き起こした系図

  人見(東條)道徳(丹波国人)─道加 ─道西 ─友徳(京で医師)─┐
                                  │
  ┌───────────────────────────────┘
  │

  └賢知(玄徳。医師)┬宜郷(友元。儒学者)┬行充(儒学者)―美在 ―美至 ┬在恭
            │          │               │   

            │          │               └在敏(猪俣を称す。)
            │          │

            │          └行高(玄徳。医師)―格(友説)―在信(美至の三男。)     
            │                       
            └篤(正竹。医師)―浩(元浩。医師)┬稱(儒学者)
                              │   
                              └思義(甚四郎。清水重好近習番)  

いちおう「医師」「儒学者」と注記したが、詳細は医師でもあり儒学者でもある場合が多い。

儒学者 人見竹洞(友元)

生年: 寛永14.12.8    (1638.1.22)  没年: 元禄9.1.14    (1696.2.16)
江戸前期の儒学者、漢詩人。名は節、一名(字も)宜卿、通称又七郎、友元、号は竹洞、鶴山など。本姓小野氏。野節と修す。禁裏の医師の子として京都に生まれる。幼年から江戸に出て林羅山に従学。徳川家光時代、世子家綱の御伽役となり、のち幕儒に任ぜられ剃髪。『続本朝通鑑』編纂に参画、法眼に叙せられ、延宝2(1674)年家督采地700石を相続する。公務では朝鮮通信使応接(1682)、武家諸法度(天和令)成稿(1683)、諸家諸寺への朱印状作りなどに携わり、木下順庵らとの『武徳大成記』編述も徳川綱吉時代の業績のひとつである。このように代々の将軍の信任を得て幕府の修史、書記役を主としたが、諸大名旗本の間、あるいは林家を介した学者文人連中との交流の中心にもいて、詩文も名勝に寄せたものや贈答の作が多い。

『新編武蔵風土記稿』豊島郡 小石川村(現・東京都文京区千石1~4)の項に

「人見又玄 抱地 三百二十五坪」とある。


人見竹洞 - コトバンク
<https://kotobank.jp/word/人見竹洞
-1103610> 

『武蔵武士』の内容にある江戸期儒者人見友元である。

『寛政重修諸家譜』 巻1121 藤原支流人見氏の項によると、医師友徳の孫、玄徳の子である。








「又玄(ゆうげん)」は「友元(ゆうげん)」だとすると、これは人見竹洞が小石川に土地を与えられていたという記述だろうか。
『寛政重修諸家譜』に出る人見思義

『寛政重修諸家譜』 巻1121 藤原支流人見氏 人見思義の項に

思義〈かねよし〉 甚助 甚四郎 人見七郎右衛門浩が四男。 母は某氏。
宝暦八年十一月朔日召れて萬次郎君(家重子清水重好)の近習番となり、倉米百俵、月俸十口をたまふ(時に三十歳)。九年十一月二十九日ながく清水の館に附属せらる。寛政七年重好卿逝去により、八月二十九日召返されて清水勤番支配の小普請となる。九年四月五日さきに仰出さるる旨もあるのところ、御家人として評定所前の箱に訴状をいれし事、不法の至りなりとて閉門せしめられ、七月二十日ゆるさる。妻は飯高弥五兵衛貞友が女。



『新編武蔵風土記稿』の人見村一乗寺の項に出てくる人見思義である。

この人は人見一族の中にあって医師・学者ではなかったようであるが、武蔵武士の子孫であることを意識していたのであろうか、一乗寺の人見一族の墓を再建している。

家譜によると、評定所前の箱(いわゆる目安箱)に訴状を入れるという事件を起こしている。当時幕臣の投書は禁止されていたために「不法の至り」で処分を受けたのである。事由は伝わっていないが、本人としては覚悟の投書であったはずで、何かしら公憤にかられての行動だろうか?
一乗寺の人見氏墓碑

『新編武蔵風土記稿』 巻之二百三十一 榛沢郡之二 深谷領之一 人見村の
一乗寺 人見四郎墓の項に

「本堂の東方にあり。碑面「人見四郎基堅入道音阿墓、正慶二壬申年二月二日、寛政四年壬子年二月修補。人見四郎男人見甚四郎小野思義」と彫る。按に、壬申は癸酉に作るべし。修補のときの誤りならん。また按に、太平記「人見四郎光行入道恩阿正慶二年二月二日本間九郎資貞とともに先駆けして赤坂城に戦死す」と見えたれば、碑面記すところの実名と異なり、基堅光行もとより別人なりしを、たまたま「恩」「音」同じ称呼ゆえに、正慶二年云々を付会せしにや。」

「また傍らに人見治部大輔天正十八年庚寅の碑あり。これも寛政年中建てしものなり。この余古碑欠損数多あるを見れば、人見氏古墳の地なるゆえ彼の碑を再造せしことにて、歴代この地に在住し上杉氏に奉公せしものなるべし。」とある。



そして、人見氏発祥の地に戻る。

人見四郎の墓は、人見甚四郎小野思義という人見四郎の子孫が、寛政4年に再建したということ。

寛政〈かんせい〉: 1789年から1801年までの期間。将軍徳川家斉のころ。

『新編武蔵風土記稿』の編者は、人見四郎墓について、「壬申」と「癸酉」の間違いや
「基堅」と「光行」、「音阿」と「恩阿」のように名前が違っていることから、別人を混同しているのではないかと考察しているのである。
しかし私は、一乗寺に建てられている以上、人見四郎光行入道恩阿の墓として建てられた可能性の方が高いと考える。(「基堅」は同人の別名か?)

深谷上杉氏: 室町時代~戦国時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。天正18年(1590年)までには後北条氏の傘下にあったが、小田原征伐で後北条氏が敗れた後は、豊臣秀吉によって所領を奪われた。

治部大輔〈じぶのたいふ・だゆう〉: 律令制の官位。

人見治部大輔という人がいて天正18年に亡くなったということである。
深谷領人見村の一乗寺は人見四郎が開基であるが、四郎の墓をはじめ、その後天正18年までの古い墓碑が存在することから、人見四郎戦死後も人見氏(の一部?)がこの地に在住し、深谷上杉氏に仕えていたのだろうと推測しているのである。

天正18年(1590年)というのはまさに小田原征伐の年であって、人見治部大輔は後北条方として豊臣方と戦って死亡したのだろうか。

小田原征伐で後北条氏が敗れた後は、人見氏も深谷上杉氏とともにこの地から追放された可能性が高い。
(現代において名字「人見」が深谷市周辺に少ないことなどから、そう推測する。)
が、一乗寺の人見氏墓碑は、墓碑を建てあるいは再建するような縁者が、その後も永く訪れることがあったことを物語っている。



あとがき

ふるさとの浅間山(東京都府中市)に「人見四郎の墓跡」という場所があることは、子どものころから知っていました。
「人見四郎とは誰?」「人見氏とは?」調べてみると、人見四郎は太平記に出てくる老武士であり、鎌倉幕府滅亡とともに討死をとげていました。人見四郎の討死の後、一族はわずかに生存したものの、歴史の波間に消えていったのだろう…と何となく「滅亡」というイメージを抱いてしまいました。
ところが、調べた事々をまとめてインターネットで公開していたところ、武蔵武士人見氏の子孫であるという方から連絡がありました。その方のお話によると、ご先祖は江戸時代の大洲藩の要職も勤めたという。そして現代にも続いて子孫が繁栄しているわけです。
私はまったく自分勝手に「滅亡」というイメージにとらわれていたことに気が付きました。
人間の一つ一つの命は儚いけれども、生活の営みは根強く、命の流れはときには地下水のように脈々と続いている。そんなことは現に自分がここに在ることを考えても分かっているはずだったのに。
さっそく、あたらしい視点で人見四郎の討死を考え直してみました。
さらに、武蔵武士と現代をつなぐものを調べてみなければと思い、人見氏に関わる情報をかき集めたのが本稿です。
資料としては不十分なものですが、私はこれらを眺めただけでも、人間のドラマに感無量です。

2016年11月12日 冨田悦哉
tomi(at)t03.itscom.net  (at)を@にかえる


これまでの人見四郎に関する資料の収集はこちら↓

 →人見四郎(東京都府中市浅間山に墓跡が伝承される)についてのメモ


 →『太平記』に出てくる人見四郎入道恩阿

 人見四郎討死の後の一族の運命について(妄想)はこちら↓

 →人見四郎入道恩阿討死の意味について


 「人見四郎」は『太平記』によるフィクション?↓

 →人見氏の実像は? (フィクションとしての『太平記』と、史実としての『楠木合戦注文』)

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