歴史index 武蔵武士 人見氏   2014.10.22 改訂2023.06.30
人見四郎入道恩阿討死の意味について
冨田悦哉
『太平記』にある人見四郎入道恩阿の討死は、先陣狙いの犬死だったのか?
「疑問」を手掛かりに、『太平記』を再読する。
 
  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。


『太平記』西源院本を底本とする兵藤裕己校注 (岩波文庫 2014年4月6 日 発行)
『太平記』流布本 (国民文庫本 明治42年8月5日発行)荒山慶一氏入力の電子テキスト版
『その後の東国武士団~源平合戦以後』関幸彦 吉川弘文館 2011年9月1日発行
『武蔵武士団』関幸彦編 吉川弘文館 2014年3月1日発行
『武蔵武士』八代国治・渡辺世祐著 有峰書店新社 昭和46年(1971 年)3月30日発行
『新編武蔵風土記稿』 平成8年6月20日 蘆田伊人校訂 雄山閣版
『武蔵名勝図会』 片山迪夫校訂 慶友社 1993年1月22日新装発行
『丹波国馬路帯刀郷士覚書~人見中川「両苗」郷士の存在形態と政治的運動』岡本幸雄著 海鳥社


・『太平記』に出る人見四郎入道恩阿
・幕府軍に動員された武蔵武士
・恩阿討死のとき、人見一族は何をしていたのか
・人見行氏は死ななかった
・【妄想】人見恩阿とその一族の戦い
・あとがき

 
メモ
『太平記』に出る人見四郎入道恩阿


『太平記』赤坂合戦事付人見本間抜懸事に記されているのは、武蔵国榛沢郡人見の老武士・人見四郎入道恩阿が本間九郎資貞とともに、先陣の功を狙って、楠木正成が守る赤坂城に対して抜駆け攻撃して討死したという物語である。

当時の浄土信仰(阿弥陀仏信仰)の影響を強く受けた物語となっており、恩阿は自らの老残を処し、忠義に殉じた者として称えられている。

現代的な目で見ると、戦術的にも無謀な単独攻撃を仕掛け、犬死としか思えない自殺に等しい死である。しかも当時の敵方兵からも、時代錯誤で田舎者の所業と軽侮された様子がある。

ともあれセンセーショナルな出来事であったため、『太平記』にも載ることになったのであろう。

しかしながら、この物語にはすんなりとは納得しがたい「疑問」がある。

(1)当時73歳というと、超高齢であろう。戦士として役に立ったのであろうか? どうして彼が戦場にいたのかという疑問である。

(2)恩阿とともに討死する本間資貞、その父を慕い追って討死する本間資忠の父子が描かれている。だがもう一組の父子の物語が語られていない。それは恩阿と人見行氏の父子である。恩阿が赤坂城に突入して討死したとき、人見一族は何をしていたのか?




武蔵七党: 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。

人見氏: 武蔵七党のひとつ猪俣党の支流で、武蔵国榛沢郡人見を本拠地とし、人見六郎政経が地名の「人見」を名字としたことに始まる。

人見四郎光行入道恩阿: 『太平記』に登場する鎌倉時代の武将。北条高時につかえ、元弘の乱で楠木正成の上赤坂城を攻め、元弘3年(正慶2年)2月2日戦死(73歳)となっている。

元弘の乱〈げんこう〉: 1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。楠木正成の赤坂城・千早城の戦いなどのエピソードあり。

幕府軍に動員された武蔵武士

鎌倉時代をとおして武蔵国は北条得宗家の直轄地のようになっていた。
それまで開発領主としてやってきていた武蔵七党ら中小武士団は、北条の支配下で被官化するしかなかった。
元弘の乱においても、北条一門の直轄部隊として、上洛する幕府軍に動員された。
人見氏の参陣は命じられた「動員」であったと思われ、そこに超高齢の恩阿が応召するのは、少々強引であり、ある意味ではふてくされた対応であったのではないか?

恩阿の考え
「関東天下を治て権を執る事すでに七代に余れり。天道欠盈の理のがるる処なし。そのうえ臣として君を流し奉る積悪、あに果してその身を滅さざらんや。」
北条得宗家の支配下にあっても、それに対して批判的な考えを持っていた。

幕府軍にある厭戦気運
「その外の軍勢ども、親は討るれば子は髻を切ってうせ、あるじ疵を被れば、郎従助て引き帰すあいだ、はじめは八十万騎と聞へしかども、今はわずかに十万余騎になりにけり。」
「その外、国々の勢ども五騎十騎、あるいは転漕に疲て国々に帰り、或は時の運を謀って敵に属しける間、宮方は負れども勢いいや重り、武家は勝てども兵日々に減ぜり。」
…など、各所に散見される。




北条得宗家: 鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒する勢力になり、御内人(得宗家の家人)が幕政に影響力を発揮し、得宗邸で行われる北条一門や御内人の私的会合である寄合が評定衆による幕府の公式の合議体(評定)に代わって実質上の幕政最高機関となり、得宗専制体制を築く。

盈〈えい〉: みちる。いっぱいになる。

欠盈の理〈けつえいのことわり〉: 物事が極点に達すれば却って災いを招くということ。 満ちれば欠けるという道理をいう。富や権力が頂点を極めると必ず衰えの兆しが現れること。

転漕〈てんそう〉: 陸路と水路とで兵糧などを運ぶこと。


恩阿討死のとき、人見一族は何をしていたのか

恩阿とともに本間資貞が討死したとき、父の死を知った本間資忠は直ちに赤坂城に向い、父の後を追って討死する。
一方、人見恩阿の一族の動きは『太平記』に見えてこない。
一族の長がまったく単騎で参陣するものだろうか。ともに参陣した一族の者が、恩阿一人を抜け駆けに行かせてしまうものだろうか? 恩阿が討死して人見一族はどう動いたのか?



人見行氏は死ななかった

恩阿討死、鎌倉幕府滅亡の後のことになるが、恩阿の子・人見行氏は丹波国出雲村に寓居したと伝えられている。
経過のほとんどは不明であるが、結果として人見行氏は鎌倉幕府とともに滅びることはなく、生き続けていたのである。
丹波国馬路は人見氏の新たな本拠地となり、人見氏は丹波郷士として、または各地の大名に仕官するなどして営みを続けていく。




『新編武蔵風土記』に、家譜からとして「元弘年中平高時滅亡の後、領地を失い、丹波国高瀬郷出雲里に寓居す」という引用が掲載されている。

丹波郷士について: 『丹波国馬路帯刀郷士覚書~人見中川「両苗」郷士の存在形態と政治的運動』岡本幸雄著 海鳥社

大名に仕官など: 戦国大名の加藤光泰への仕官(のちに伊予大洲藩へ)。江戸時代の幕府儒官である人見竹洞。その他江戸時代の家譜などに人見の名は多数見られる。

【妄想】人見恩阿とその一族の戦い

(上の疑問を解き明かす資料は持ち合わせないので、以下は勝手な想像でしかない。)

人見一族は、北条得宗家の武蔵国支配のもとで、一族がこれまでに武蔵国で獲得してきた地場の確保に努めていた。それは独立した開発領主という形だったものが、北条得宗家の被官的なものへ変化していくことになった。

北 条の威を借る形にはなったが、人見四郎入道恩阿は武蔵国衙にも出入りし、武蔵府中に近い人見山の麓にも屋敷を構え、八王子の子安神社を再建するなど、多摩郡においても精力的に活動した。本拠地榛沢郡人見郷には菩提寺一乗寺を建立、人見一族繁栄の一つのピークをもたらした。

内心には北条得宗家の専横に対する不満を抱えながらのものであったが、武蔵国における有力武士が滅亡するなかで、小武士団としてはやむを得ない方法であった。

しかし高まる北条得宗専制への不満を背景に元弘の乱が勃発した。
武蔵武士は北条一門が率いる幕府軍に動員されることになる。

在地経営の苦しいなか、幕府軍に動員され遠隔の地へ遠征するのは大変な負担である。
しかも、武蔵武士各々にとって戦いの大義がなく、北条直属の手勢のように動員されることに反発もある。

渋々命令には従ったものの、人見一族の疲弊は避けたい。
恩阿にはもくろみがあった。

老いた自分が人見一族を代表して討死する。それもできるだけ目立って討死する。
そのためには大軍乱戦の中ではダメで、抜け駆け先陣が必要である。
それによって北条得宗家への義理は果たす。
(自分の代での繁栄が北条体制の内にあることを恩阿はよく分かっていた。)
そうすれば自分の死後残った者たちが人見一族の功として主張することもできる。
そのかわり、それ以上の人見一族の犠牲は極力回避する。

これは恩阿と子・行氏の合意でもあった。
父子の情としては耐え難いものがあったと思うが、人見一族の存続のために、行氏もついには同意した。

恩阿は一族同胞を後陣に残して、自身は天王寺に先行した。
案の定、総大将からは抜け駆け禁止の通達が出た。
しかし自分はあくまで確信的に抜け駆けするつもりである。
明朝に抜け駆けしようという気の高ぶりからか、恩阿は本間資貞相手に覚悟の程を口にしてしまった。(2月1日)
本間のそっけない反応に白ける思いをしたが、ライバルが一人減ったと思えば良い。自身の決意を明確にするために、天王寺鳥居に歌を記しておく。

翌朝(2月2日)に本間資貞に出くわしたときは、「こいつも先陣ねらいだったか」と苦笑したが、時宗僧が付き従っている資貞と同行すれば、自分の先陣の証人にもなると考え、「それもよいか」と思い直した。

あとは赤坂城に突入して、はなばなしく討死するばかりであるが、名乗りを上げるも城内からの反応が鈍い。なんということか。これだけの決意をもってやってきたのに無視されては堪らない。
資貞とともに、城塀に肉薄して木戸をこじ開けようとする。
城兵もこれは放置することができず、恩阿、資貞に向けて雨のように矢を射かける。
「これが儂の死か、南無…」と瞬間の想念を最後に恩阿は死んだ。(2月2日)

恩阿と資貞の首は城兵によって切り取られたが、付き従ってきた時宗僧が乞い受けて、天王寺へ持ち帰った。
時宗僧の説得にもかかわらず、資貞の子・本間資忠は単身で赤坂城へ乗り込み、討死してしまう。18歳の資忠に突然の父の死は強烈すぎたのか、日頃からの浄土信仰と父への敬愛の情が勝ってしまったのか。(2月2日)

人見一族の戦いは続く。
幕府軍は赤坂城の麓へ進んだ。
人見一族は、長である恩阿の首が葬られた場所を確かめるのも早々に赤坂城包囲の陣へ合流する。
最初、幕府軍は赤坂城を力攻めして損害を重ねた。しかし人見一族は恩阿との約束を守り、無謀な攻撃に出ることなく自重した。(2月13日まで)
やがて城攻めは水源を断つ作戦へと変更され、渇きに耐えられなくなった城兵はついに降伏してきた。この降人は京に連行され、一人残らず首を刎ねられた。(2月末)

幕府軍はさらに千早城包囲戦へと進む。
しかしまたもや力攻めは通じず、城の防備の仕掛けや楠木軍のゲリラ戦によって損害を重ね、幕府軍の士気は低下していく。
味方同士でのケンカによる殺傷事件が起きたり、親子主従の死傷などを口実に戦線離脱する者が続出する。幕府軍の実数は激減し、包囲戦は停滞状態になった。

そのころ、新田義貞も理由をつけて武蔵国の本拠地へ帰っていた。(密かに大塔宮の綸旨を受けていたという物語になっている。)(3月11日)

幕府軍が千早城を攻めあぐんでいるうちに、各地で反乱が起きるようになった。
隠岐から 先帝後醍醐も脱出(3月23~24日)し、伯耆国船上山で挙兵した。

幕府は足利高氏を大将として新たな軍団を上洛させた。(元弘3年3月27日鎌倉出発、4月16日京都着)
伯耆国の後醍醐軍を討伐に向うはずであった、ところが! 
足利高氏、丹波国篠村八幡宮で討幕旗上げ。(5月7日)
次いで六波羅の幕府軍を滅亡させる。

六波羅滅亡の報は、翌日午刻には千早城へもたらされた。
千早城を包囲していた幕府軍は、5月10日の早朝には退却を開始したが、楠木軍の追撃や野伏の襲撃にさらされて惨憺たる態となった。それでも、おもな武将はその日の夜半に南都奈良にたどりついた。

そのころ関東においては。
新田義貞、上野国新田庄の生品明神で討幕旗上げ。(5月8日)
武蔵国に入り、足利高氏の子・千寿王(のちの義詮)と合流。(5月9日)
これより軍を進めるにしたがい上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵が集まり来て20万7千余騎もの大軍になったという。
小手指原の合戦(5月11日)
分陪河原の合戦(5月15~16日)
鎌倉に攻めかかる。(5月18日)
北条一門、鎌倉東勝寺にて自害。(5月22日)

各地で幕府方が撃滅される。

千早城麓から退却し南都奈良に拠っていた幕府軍の将が降伏するも、許されず罪人として処刑される。

ここで挿入されている「佐介左京亮貞俊の物語」が幕府軍に従軍した武士の状況・心情を伝えていると思われるので、少し長くなるが引用する。

 佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉たるうえ、武略才能ともに兼ねたりしかば、「さだめて一方の大将をも」と身を高く思いけるところに、相摸入道さまでの賞翫も無かりければ、恨を含み憤を抱きながら、金剛山の寄手の中にぞありける。
 かかるところに、千種頭中将が綸旨を申し与へて、味方に参るべき由を仰せられければ、さる五月の初めに千早(城)より降参して、京都にぞ歴回りける。
  さるほどに、平氏の一族皆出家して、囚人になりし後は、武家被官の者ども、ことごとく所領を召し上げられ、宿所を追い出されて、僅かなる身一つをだに措きかねて、貞俊も阿波の国へ流されてありしかば、今は召し仕う若党・中間も身に傍わず、昨日の楽今日の悲となりて、ますます身を責める体になりゆければ、盛者必衰の理の中にありながら、いまさら世中無情と覚えて、いかなる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。
 さても関東の様何とかなりぬらんと尋ね聞くに、相摸入道殿をはじめとして、一族以下一人も残さず、みな討たれたまいて、妻子従類も共に行方を知らずなりぬと聞えければ、今は誰を頼み、何を待つべき世とも覚えず、見るにつけ聞くにしたがいて、いとど心をくじき、魂を消しけるところに、関東奉公の者どもは、いったん命を助からん為に、降人に出るといえども、ついには如何にも野心ありぬべければ、ことごとく誅さるべきとて、貞俊もまた召し捕られてげり。
 とても心の留まる浮世ならねば、命を惜しとは思わねども、故郷に捨て置きし妻子どもの行く末、何とも聞かで死なんずる事の、あまりに心に懸かりければ、最期の十念勧めける聖に付きて、年来身を放たざりける腰の刀を、預け人の許より乞い出して、故郷の妻子の許へぞ送りける。聖これを請け取りて、その行く末を尋ね申すべきと領状しければ、貞俊かぎりなく喜びて、敷皮の上に居直って、一首の歌を詠じ、十念高らかに唱えて、しずかに首をぞ打せける。「皆人の世にある時は数ならで 憂きにはもれぬ我身なりけり」 
 聖、形見の刀と、貞俊が最期の時着たりける小袖とを持って、急ぎ鎌倉へ下り、かの女房を訪ね出だし、これを与えければ、妻室、聞きもあへず、ただ涙の床に臥し沈みて、悲しみに堪えかねたる気色に見えけるが、側なる硯を引き寄せて、形見の小袖の端に、「誰見よと信を人の留めけん 堪て有べき命ならぬに」と書き付けて、記念の小袖を引かづき、その刀を胸につき立てて、たちまちに果敢なくなりにけり。
 この外あるいは偕老の契り空しくして、夫に別れたる妻室は、いやしくも二夫に嫁せん事を悲しんで、深き淵瀬に身を投げ、あるいは口養の資無くして子に後れたる老母は、わずかに一日の餐を求めかねて自ら溝壑に倒れ伏す。

 承久より以来、平氏世を執って九代、暦数すでに百六十余年に及びぬれば、一類天下にはびこりて、威を振るい勢いを専らにせる所々の探題、国々の守護、その名を挙げて天下にある者すでに八百人に余りぬ。いわんやその家々の郎従たる者幾万億という数を知らず。さればたとい六波羅こそたやすく攻め落とされども、筑紫と鎌倉をば十年・二十年にも退治さること難しとこそ覚えしに、六十余州ことごとく符を合わせたるごとく、同時にいくさ起こって、わずかに四十三日のうちに皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ。愚なるかな関東の勇士、久しく天下を保ち、威を遍く海内に覆しかども、国を治める心無かりしかば、堅甲利兵、いたずらに梃楚のために挫かれて、滅亡を瞬目のうちに得たる事、驕れる者は失し倹なる者は存す。いにしえより今に至るまでこれあり。このうちに向って頭をめぐらす人、天道は盈てるを欠く事を知らずして、なお人の欲心の厭うことなきに溺る。あに迷わざるか。


人見行氏以下の人見一族はどうしたか。

長引く千早城包囲戦にあっても恩阿の遺訓を守り、生き抜くことに意を用いて過してきた。
なかでも丹波国馬路にある人見氏支流と連絡を取り合うことに努め、負傷者の後送・治療に協力を得るとともに、畿内の情勢について情報提供を受けていた。

とりわけ、丹波国篠村における足利高氏の旗上げの報は重大であった。人見氏支流は大勢に従って足利方に味方するという。ここに至って行氏らは幕府軍から離脱することを決断した。
密かに千早城包囲の陣を抜け出すと、あとは丹波の支流の手引きによって馬路の里に身を寄せた。まもなく六波羅滅亡の知らせが届き千早城包囲軍が崩壊することを思えば、まさに危ういところであった。

後に伝えられた武蔵国榛沢郡人見の里の様子は、行氏らの心を暗澹とさせた。
留守居の者たちに戦禍で落命したものはないという。上野国からの新田軍の侵攻を受けて、むしろそれに合流して鎌倉攻めに参加した一族の者もいるという。
恩阿はあらかじめ留守居の者たちに、万が一の時には現地の判断で命を永らえるように、人見の血脈を保つようにと言い置いていたのである。
しかし、土地については、北条の下に仕えていた恩阿の領地ということで、大半が新田軍に接収された。これまで丹精してきた人見の地に、もはや帰ることはできない。
祖先が恩阿が営々と築いてきたものは無になってしまった。いまとなっては武蔵の野は阿弥陀浄土よりも遠い。
なにより馬路の里にかくまわれている自身が「逆賊」である。武蔵に残されている一族を丹波馬路に迎え入れるのも、支流の衆の力を借りなければならないか…

身一つになった人見行氏一族は、馬路の北方の出雲村の土地を細々と開墾することから始めた。かつて武蔵の人見山の麓に祖先が初めて鍬を入れたように、小さな畑に汗を流した。

人見一族は消え去ることなく、丹波の地に根をおろした。
世は、南北朝の動乱、室町、戦国へと移っていき、丹波の人見一族の里を幾つもの波が洗っていった。
そのなかで人見一族は、丹波の郷士として、または各地の大名に仕官するなどして営みを続けていったのだが、それはまた別な物語として語られることだろう。

(妄想おわり 以上)






在庁官人: 平安中期から鎌倉期に、国衙行政の実務に従事した地方官僚の総称。在庁官人という名前の役職が存在したわけではない。

人見氏が在庁官人を勤めていたという資料は無い。また、北条得宗被官になったという資料も無い。

国衙: 日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画。
またはその役所のこと。

武蔵府中の人見山麓に人見氏の屋敷があったと、『武蔵名勝図絵』著者の植田孟縉は断定しているが、その根拠は不明である。

子安神社再建については、神社の古文書に記載があるらしいが、真偽は不明。
なお、その記載にある恩阿の名は「多東郡住人人見四郎入道光行」となっている。

北条氏はライバルの比企能員、畠山重忠、三浦泰村、安達泰盛らを滅ぼし、武蔵国、相模国を北条得宗家の支配下とした。

鎌倉幕府打倒というが、実態は北条得宗家打倒という性質を帯びていた。したがって、北条得宗家を守る戦いに武蔵武士の利害が一致するとは限らなかった。





このあたりは、私の勝手な『太平記』裏読みである。













『太平記』巻第6 赤坂合戦事付人見本間抜懸事

天王寺西門の鳥居は西方浄土に向う聖地であった。阿弥陀仏への誓いとも解釈できるか。(落書とは違う。)





当時、戦場に時宗僧が多く活動していた。
この僧の存在が戦いの様子を伝え、『太平記』などの成立に寄与したと考えられる。
恩阿も時宗信者。(一乗寺は時宗)

























時宗僧から人見一族へ、恩阿の首の葬地は伝えられたと思う。







『太平記』巻第7 千剣破城軍事

このあたり、人見一族は赤坂城、千早城の包囲軍に属していたと仮定している。

恩阿の子・人見行氏は上洛幕府軍に参加せず武蔵国の本拠地に残ったという仮定もありうるが、(1)鎌倉幕府滅亡で人見氏が領地を失った。(2)領地を失った行氏が丹波国に寓居した。(3)高齢の恩阿が全く単身で参陣というのは不自然。などと勘案して、行氏も上洛幕府軍に参加していたと仮定した。行氏はこのころ50歳前後かと思う。

『太平記』巻第7 新田義貞賜綸旨事、先帝船上臨幸事、

『太平記』巻第9 足利殿御上洛事、高氏被篭願書於篠村八幡宮事、六波羅攻事






『太平記』巻第9 千葉屋城寄手敗北事


『太平記』巻第10 新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事、鎌倉合戦事、高時並一門以下於東勝寺自害事












『太平記』巻第11 

『太平記』巻第11 金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事


平氏: 北条氏のこと。北条氏は平姓。

佐介左京亮貞俊〈さかいさきょうのすけさだとし〉

門葉〈もんよう〉: 一門。

相摸入道: 北条高時のこと。

賞翫〈しょうがん〉: めでもてはやすこと。

金剛山: 楠木正成は金剛山一帯に山城を築城した。千早城、上赤坂城などが山城群を構成していた。

千種頭中将〈ちくさのとうのちゅうじょう〉: 千草忠顕。討幕方の公家。

歴回り〈へめぐり〉: たどり着く。

囚人〈めしうど〉
盛者必衰〈じょうしゃひっすい〉

関東奉公の者ども: 鎌倉幕府(北条)に仕えている者。

降人に出る: 降伏すること。

誅さるべき: 悪人として処刑されるべき。

最期の十念: 浄土信仰で、死のまぎわに十遍の念仏を唱えること。

領状: 承知する旨の文書。ここでは承知すること。

信〈かたみ〉

偕老〈かいろう〉: 夫婦が、年をとるまで仲よく一緒に暮らすこと。

口養の資〈こうようのたすけ〉: 糊口〈ここう〉、生計の資。

餐〈ざん、さん〉: 飲食すること。また、飲食物。

溝壑〈こうがく〉: みぞ。どぶ。

業報〈ごうほう、ごっぽう〉: 善悪の業を原因として,それに応じて受ける報い。

海内〈かいだい〉: 四海の内。この世。天下。

堅甲利兵〈けんこうりへい〉: 堅固なよろいと鋭利な武器の意。非常に強い兵力のこと。

梃楚〈ていそ〉: ?

瞬目〈しゅんもく、しゅんぼく〉: まばたきをする間。瞬時。

頭〈こうべ〉

盈てるを欠く〈みてるをかく〉: 満ちたものはいずれ欠けることになるという道理のこと。








ここからは私の勝手な想像の産物である。

丹波国馬路にある人見氏支流: 『武蔵武士』に「人見又七郎長俊は軍功によって丹波国馬地道を 賜り移住したという。」とある。
馬地道は馬路と思われる。この移住は承久の乱(1221年)後の新補地頭に伴うものと思われる。
丹波国馬路にはすでに人見氏支流が居住していたのである。

たとえば、熊谷氏は承久の乱の功で安芸国三入庄に新たな領地を得て、西遷した。
後年、熊谷直経は正慶2年閏2月、幕府軍として河内楠木攻撃に参加しているが、
旧領の熊谷郷を経営していた子直春は、上野国で挙兵の新田軍に属し戦って5月20日に討死している。

『新編武蔵風土記』に、家譜からとして「元弘年中平高時滅亡の後、領地を失い、丹波国高瀬郷出雲里に寓居す」という引用が掲載されている。


武蔵国榛沢郡人見(現・埼玉県深谷市人見)が人見氏発祥の地である。
人見郷は人見山(現・仙元山)の麓一帯である。

丹波郷士について: 『丹波国馬路帯刀郷士覚書~人見中川「両苗」郷士の存在形態と政治的運動』岡本幸雄著 海鳥社

大名に仕官など: 戦国大名の加藤光泰への仕官(のちに伊予大洲藩へ)。江戸時代の幕府儒官である人見竹洞。その他江戸時代の家譜などに人見の名は多数見られる。

あとがき

ふるさとの浅間山(東京都府中市)に「人見四郎の墓跡」という場所があることは、子どものころから知っていました。
でも、人見四郎がどこの誰であるかはまったく分からないままでした。
この齢になって『太平記』に人見四郎という人物が登場するということを知り、読んでみました。
正直なところ、先陣狙いの犬死にしか思えず、称えられていることがかえって薄っぺらと感じてしまいました。
ところが、あるきっかけから、鎌倉時代より後の人見氏の営みを知ることになり、時代を生き抜いていく人々のパワーに思い至ったのです。
そうして、人見四郎入道恩阿の物語を読み直してみると、老武士の美学と浄土信仰で理由づけしてしまうことに違和感を覚え、『太平記』に語られていない物語があるのではないかと思うようになりました。
それを一言でいうと、恩阿は最後まで武蔵武士らしく一族の《一所懸命》のために命を燃やし、彼の一族もそれに応えて後の世へ生き続けていったということになります。
つまり本当の物語は、決して「恩阿の最後」のお話ではなかったということです。
しかし私が想像する物語を証拠付けるような資料はさっぱり見当たらず、まったく勝手な妄想の域を出ることはできませんでした。
このような妄想を公表することは、歴史を真面目に考えている方々にご迷惑であろうとは思いますが、恩阿の「名誉回復」をしておきたいという気持ちが止みがたく、とうとうこうして出してしまいます。
今後も証拠となるような資料は探し続けていくということで、ご容赦を願います。

2014年10月22日 冨田悦哉
tomi(at)t03.itscom.net  (at)を@にかえる


これまでの人見四郎に関する資料の収集はこちら↓

→太平記に出てくる人見四郎入道恩阿


→人見四郎(東京都府中市浅間山に墓跡が伝承される)についてのメモ

 現代にもつながる人見氏の営みについてはこちら↓

 →その後の人見氏 (武蔵武士人見氏は鎌倉幕府滅亡後どのような運命をたどったのか)

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