歴史index 武蔵武士 人見氏   2014.09.28  改訂2024.08.28
人見四郎の墓跡について (東京都府中市浅間山に《人見四郎墓跡》という場所が伝承されている)
冨田悦哉
ふるさとの山、浅間山にある 「人見四郎の墓跡」とは何なのか?
これまでに調べたことをまとめておく。
 
  これは私の勉強のため に資料を引用し、覚えのために注記を付したものであ る。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。

 
メモ
「人見四郎の墓跡」の碑


 浅間山(東京都府中市)の前山の尾根上東端に黒い石碑で「人見四郎の墓跡」を示している。
 碑には、「ここは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武士人見四郎の墓跡と伝えられる 平成二年三月 府中市教育委員会」と記されている。

 府中市教育委員会が建てた碑は「伝承がある」ことを示しているだけである。






前山: 浅間山〈せんげんやま〉の3つの頂のうち、もっとも南西側の頂。

府中市教育委員会が碑を建てた根拠は不明。

人見氏

→人見氏について

武蔵七党の一つ猪俣党の支流で、猪俣五郎時範の4代後の政経が武蔵国榛沢郡人見の地を領し、地名の「人見」を名字として人見六郎政経を名乗ったことに始まる。

武蔵武士・人見氏の本拠地は武蔵国榛沢郡人見(現在の埼玉県深谷市)である。




武蔵七党: 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。

猪俣党〈いのまたとう〉: 武蔵七党の横山党と同じく小野篁の末裔を称する。

政経による人見氏発祥を、「武蔵国多摩郡人見から」とか、「安房国人見から」とするものは、各地にある「人見」という地名からの誤解であろう。

深谷市人見の仙元山: 標高98.1m。平地に突出して、山頂に浅間神社を祀る。東京都府中市の浅間山とそっくりの立地である。
山の古名である「人見山」から麓一帯の「人見」という地名が生じたと考えられるのも東京都府中市浅間山と似ている。


各地に「人見」という地名が存在する。これは孤立丘などがあり眺望がきき、周囲を監視(人見)するのに適した場所についた地名のようである。

したがって「人見」という地名があるからといって人見氏が領していたとは言えない。


東京都府中市における「人見」

浅間山は古くは人見山と呼ばれていた。
武蔵野の中にあって孤立丘であることから「人見山」と呼ばれるようになったと考えられる。


浅間山の南麓は人見村といった。(現在は府中市若松町。)
浅間山(東京都府中市)のふもとに人見稲荷神社が鎮座している。

深谷から鎌倉へ鎌倉街道上道〈かみつみち〉を進めば、武蔵府中はその途中にある。

人見山: 『新編武蔵風土記稿』および『武蔵名勝図会』に「人見村」「人見山」という名称が出てくる。

人見村〈ひとみむら〉: ただしこれは、人見山の麓に開かれた村であるためと思われる。

人見稲荷神社: ただしこれは、かつての人見村に鎮座することからの名称であると思われる。

鎌倉街道上道〈かみつみち〉: 「鎌倉街道」は、各地より鎌倉に至る道路の総称。

鎌倉街道上道の経路としては、様々に推定されているが、およそ「鎌倉−瀬谷−町田−関戸−府中−恋ヶ窪−所沢−入間川−女影−笛吹峠−大蔵−奈良梨−塚田−花園−児玉−藤岡…碓氷峠へ…」と続く。
深谷あたりへは塚田から分岐があったようである。
『武蔵名勝図会』および『新編武蔵風土記稿』


『武蔵名勝図会』は府中人見村に人見氏が住んだと断定しているが、根拠は無いようである。


『新編武蔵風土記稿』多磨郡の項は、人見氏の存在についてまったく言及せず。




人見四郎入道恩阿

『太平記』に登場する鎌倉時代の武将。北条高時につかえ、元弘の乱で楠木正成の赤坂城を攻め、正慶二年(元弘三年)二月二日戦死(73歳)。武蔵国榛沢郡出身。名は光行。通称は四郎。


東京都八王子市の子安神社は、1330年(元徳二年)人見四郎入道光行が再建したと伝えられる。 人見四郎入道恩阿が寄進した神櫃銘文の写が伝えられていて「武州多西郡子安大明神、元徳二年七月再造御移奉也、同国多東郡住人人見四郎入道光行寄進」とあるという。




デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「人見恩阿」から。

元弘の乱〈げんこう〉: 1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。楠木正成の赤坂城・千早城の戦いなどのエピソードあり。

「現存しない神櫃」の銘文の「写」である。「写」の時期と由来は不明。

平家物語に出てくる「人見四郎」は別人で、人見四郎入道恩阿の4代前の人見四郎忠衡である。

→『平家物語』に出る人見四郎

人見四郎光行(恩阿)は実在したのだろうか?
しかし、多摩郡の人見山・人見村と人見四郎光行(恩阿)の関連は、史料上は薄弱と言わざるを得ない。





そもそも、府中市教育委員会による碑文は「人見四郎」が人見四郎光行(恩阿)であるかどうかも明らかではなく、あらためて、府中市教育委員会はいかなる形の伝承に基づいて「人見四郎の墓跡」碑を建立したのか、という関心が深まる。


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