歴史index | 武蔵武士 | 人見氏 | 2014.8.18 改訂2024.08.28 | |
『太平記』に出てくる人見四郎入道恩阿 冨田悦哉
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東京都府中市の浅間山の尾根上に「人見四郎墓跡(真偽は不明)」という場所がある。 その人見四郎入道恩阿は、現在の埼玉県深谷市人見を本拠とした武蔵武士であり、『太平記』の物語に登場する人物である。 『太平記』を読んでみる。 |
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これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。 資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。 引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。 |
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メモ
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『太平記』 (岩波文庫 2014年4月6日発行) 兵藤裕己校注 京都の龍安寺所蔵の西源院本を底本とする 第六巻 9 赤坂合戦の事并人見本間討死の事 赤坂の城へ向かはれける大将赤橋右馬頭、後陣の勢を待ち調へんがために、天王寺に両日逗留ありて、「二月三日午刻に、矢合はせあるべし、もし抜懸けの輩に於ては、罪科たるべき」由をぞ触れられける。 ここに、武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿と云ふ者ありけるが、本間九郎に向かつて語りけるは、「御方の軍勢、雲霞の如くなれば、敵の城を攻め落とさんずる事は疑ひなし。但し、事の様を案ずるに、関東天下の権を取って、すでに七代に余れり。天満てるを欠く理り、遁るる所なし。その上、臣として君を流し奉りし積悪、豈にはたしてその身を滅さざらんや。恩阿、不肖の身なりと云へども、武恩を蒙つて、齢すでに七十三になりぬ。今より後さしたる思ひ出もなき身の、そぞろに長活きして、武運の傾かんを見んも、老後の恨み、臨終の障りともなりぬべければ、明日の合戦に先懸けして、一番に討死して、その名を末代に残さんと存ずるなり」と語りければ、本間九郎、心の中にはげにもと思ひながら、今度の合戦には、誰と云ふとも前をば懸けらるまじきものをと思ひければ、「枝葉の事を宣ふものかな。これ程の打ちこみの軍に、そぞろなる前懸して討死したりとても、さしたる高名ともいはるまじ。ただそれがしは人なみなみに振る舞はんと存ずるなり」と申しければ、恩阿、よにも無興げにて本堂の方へ行きければ、本間、怪しく思ひて人を付けて見せければ、矢立を取り出だして、石の鳥居に何事とは知さず一筆書き付けて、己れが宿へぞ帰りける。本間、さればこそ、この者に明日の先懸けせられぬと、心ゆるしもなかりければ、まだ宵より打ち立つて、ただ一騎、忍びやかに東条を指してぞ向かひける。 第六巻 9 赤坂合戦の事ならびに人見・本間討死の事 赤坂の城へ向かっていた大将赤橋右馬頭は、後続する軍勢を待ち態勢を調えようと、天王寺に二日間滞在して、「二月三日午の刻に、矢合わせとする。もし抜け駆けをする者があったら、罪を問う」と配下に通達した。 城の中の者ども、これを見て、「これぞとよ、坂東武者の風情。これは熊谷、平山が一谷の前懸けを聞き伝へて、羨しく思へる者どもなり。跡を見るに続く武者もなし。またさまでの大名とも見えず。溢れ者の不敵武者、跳り合うて、命失うて何かせん。ただ置いて、事の様を見よ」とて、東西鳴りを静めて返事もせず。人見、腹を立て、「われら二人、早旦より向かつて名乗れども、城中より矢の一つも射出ださぬは、臆するか、敵を侮るか、いでいでその儀ならば、手柄の程を知らせん」と云ふままに、馬より飛んで下り、堀の上に渡したる細橋をさらさらと走り渡り、二人の者ども、出塀の脇に引つ傍うで、木戸を切つて落とさんとしける間、城中、これに騒ぎて、櫓の上より雨の降る如くに射ける矢、二人の者どもが鎧に、蓑毛の如くに射立てたり。本間も人見も、元来討死せんと出で立つたる事なれば、なじかは一足も引き退くべき。命を限りに戦うて、二人一所に討たれにけり。 石川の河原で夜を明かし、朝霞の晴れ間から南の方を見ると、紺色の唐綾で札を縅した鎧に白い母衣を懸けて、鹿毛の馬に乗った武者が一騎、赤坂の城へ向かっているところである。いったい誰だろうと、馬を寄せて見ると、人見四郎入道恩阿であった。人見は、本間を見て、「昨夜あなたが言った事を本心と信じてしまったら、孫ほどの齢の者に出し抜かれるところだった」と、からからと笑って、ますます馬を早めて行った。本間は、後に追い着いて、「こうなったら互いに先駆けを争っても申すに及ばず。同じ場所に屍を曝して、冥途までも同行しましょう」と言うと、人見は、「申すにや及ぶ」と返事して、後になり前になり、互いに話をしながら馬を進めて行った。 最後の十返念仏を勧めるためにここまで付き従ってきた時宗の僧は、本間の首を貰い受けて、天王寺へ持ち帰り、本間の子息源内兵衛資忠に、ことの始めからの出来事を語った。資忠は、父の首を一目見て、一言も口に出ださず、ただ涙に咽んで居たが、どのように思ったのだろうか、鐙を取って肩に担ぐと、馬に鞍を置かせ、ただ一人で出かけようとする。聖は、不審に思って、鎧の袖をつかんで引き留め、「あなたはいったい何をしようというのですか。お父上も、この合戦で一番乗りをして、ただ名前を天下に知られようと思っただけならば、父子いっしょに連れ立って行ったでしょうが、命を相摸殿のために捨てて、恩賞を子孫の繁栄のために残そうと思ったからこそ、他の誰よりも先に討死をしたのです。それなのに、父上の考えをよく理解しようとすることもなく、あなたまでが敵陣に駆け入って、父子ともに討死してしまっては、誰がその死後を弔い、誰がその恩賞を受け取るのでしょう。子孫が永遠に栄えることこそが、父祖への孝行を実行する道だといいます。悲嘆のあまりに思慮を失って、死を共にしようする思いはもっともですが、すこしの間に気持ちを落ち着けて思い止まってください」と、強く制止したので、資忠は、涙をこらえて、着ていた鎧を脱ぎ置いた。聖は、さては自分の制止に従ってくれたのだと嬉しく思って、本間の首を小袖に包み、葬礼のために近辺の鳥辺野へ行ってしまった。 その間に、資忠、今は制し止むべき人なければ、上宮太子の御前に参り、「今生の栄耀は、今日を限りの命なれば、祈る所にあらず。ただ大悲の弘誓誠あらば、親て候ふ者の討死仕りぬる戦場の、同じ苔の下に埋もれて、九品安養の台に生まるる身となさせ給へ」と、泣く泣く祈念をして、夜とともにこそ立ち出でけれ。石の鳥居を見れば、父とともに討死したる人見四郎入道恩阿が書き付けたる歌あり。これぞげにも、後世までの物語りにも留むべき事よと思ひければ、右の小指を喰ひ切つて、その血にて一首をまた書き添へて、赤坂へぞ向かひける。 城近くなりければ、馬より下り、弓を脇に挟みて木戸を敲き、「城中の人々に申すべき事候ふ」とぞ呼ばはりける。やや暫くあつて、兵一人、櫓の狭間より顔を差し出だして、「誰人にて御渡り候ふぞ」と問ひければ、「これは、今朝この城に向かつて討死仕つて候ひつる、本間九郎資頼が嫡子に、源内兵衛資忠と申す者にて候ふなり。人の親の子を思ふ憐れみ、心の暗に迷ふ習ひにて候ふ間、ともに討死せんずる事を悲しみ、われわれに知らせずして、ただ一人討死仕りけるにて候ふ。相伴ふ者もなくて、中有の途に迷ふらんも、さこそと思ひやられ候へば、同じく討死仕つて、冥途までも、父に事ふる道を厚くし候はばやと存じて、ただ一人罷り向かつて候ふ。城の大将にこの様を申され候ひて、木戸を開かれ候へ。親にて候ふ者の討死仕りつらん処にて、同じく命を止めて、その望みを達し候はん」と、慇懃に事を請うて、涙ぐみてぞ立つたりける。一の木戸を堅めて居たる兵五十余人、その志の高くして、義に向かふ所のやさしくあはれなるを感じて、忽ちに木戸を開き、逆木を引のけければ、資忠、城中へ懸け入つて、五、六十騎の敵と火を散らして切り合ひけるが、つひに父が討たれしその跡にて、刀を口にくはへて、馬より倒に飛び下り、貫かれてぞ死ににける。
その間に資忠は、もう制止する人もいないので、上宮太子の堂の前に参ると、「この世での栄華については、今日が最後の命なので望みません。ただ太子様の衆生を情け深く救おうという誓いが真実ならば、父が討死した戦場の、同じ苔の下に埋もれて、いっしょに九品安養の台の上に生まれ変わるようにしてください」と、泣きながら祈念して、夜になるとともに出発して行きました。途中で石の鳥居を見ると、父とともに討死した人見四郎入道恩阿が書き付けた歌があった。これこそ実に、後世まで語り伝えられる方法であると思ったので、右手の小指を噛み切って、その血で歌一首を資忠もまた書き加えて、赤坂へ向かった。 惜しきかな、父の九郎は、双びなき弓馬の達者にて、国のために要須たり。また、資忠はためしなき忠孝の勇士にて、家のために栄名あり。人見は年老い、齢傾きぬれども、義を知り命を知る事、時とともに消息す。この三人、同時に討死しぬと聞こえければ、知るも知らぬも押し並べて、歎かぬ者はなかりけり。 すでに前懸けの兵ども、抜懸けに赤坂の城へ向かつて討死する由披露ありければ、大将、則ち天王寺を立つて向かはれけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見るに、左の柱にぞ、 花さかぬ老木の桜朽ちぬともその名は苔の下にかくれじ と一首の歌を書いて、「武蔵国の住人人見四郎入道恩阿、老年七十三にして、正慶元年二月二日、赤坂の城に向かひ、武恩を報ぜんために討死し畢んぬ」と書きたり。その右の柱に、 まてしばし子を思ふ闇にまよふらむ六の岐の道しるべせむ と詠みて、「相摸国の住人本間九郎資頼が嫡子、源内兵衛資忠、生年(十八)、正慶元年仲春二日、父の死骸を枕にて、同じく戦場に命を止め畢んぬ」とぞ書いたりける。父子の恩義、君臣の忠貞、この二首の歌に顕れて、骨は黄壌一堆の下に朽ちぬとも、名は止まつて、青雲九天の上に高し。今に至るまで、その石碑の上に消え残れる三十一字を見る人の、感涙を流さぬはなかるべし。
惜しいことであった。父の本間九郎資頼は、他に比べるものがないほどの弓・馬の達人で、国のために欠かせぬ人物であった。また、子の資忠は過去に例がないほどの忠孝の心を持った勇士で、家のために名誉をもたらした。人見四郎入道恩阿は年老いていたが、道義をわきまえ天命を知り、時勢の変化に従って身を処した。このような三人が一度に討死したという知らせに、彼らを知る人も知らない人も、歎かない者はなかったのである。 花さかぬ老木の桜 朽ちぬとも その名は苔の下にかくれじ と 一首の歌が書いてあり、「武蔵国の住人人見四郎入道恩阿、老年七十三にして、正慶元年二月二日、赤坂の城に向かひ、武恩を報ぜんために討死し畢んぬ」と書いてあった。その右の柱に、 まてしばし 子を思ふ闇にまよふらむ 六の岐の道しるべせむ と詠んで、「相摸国の住人本間九郎資頼が嫡子、源内兵衛資忠、生年十八、正慶元年仲春二日、父の死骸を枕にて、同じく戦場に命を止め畢んぬ」と書いてあった。父と子の間にある恩義、君と臣の間にある忠貞が、この二首の歌に表現されていて、骨は黄壌一堆の下に朽ち果てても、名は後世に残って、青雲九天の上ほどに誇り高い。だから今に至るまで、その石碑の上に消え残っている三十一字を見る人で、感動の涙を流さない者はいないのである。 |
人見:武蔵国榛沢〈はんざわ〉郡人見を本拠とする武士の一族。 『太平記』に登場する人見四郎光行(入道して恩阿〈おんあ〉)が有名である。 入道:仏道に入った者。在家入道、出家入道もある。 本間:相模国愛甲郡依智〈えち〉の武士、本間資頼。別本では「資貞」。 赤橋右馬頭:赤橋氏は北条一門。別本では「阿曾弾正少弼」などともなっている。阿曾氏も北条一門。 天王寺:大阪市天王寺区にある寺院「四天王寺」。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。交通の要衝にあった。 午の刻〈うまのこく〉:現在の昼12時前後2時間頃を指す語。 矢合わせ:戦いを始める合図に、矢を双方から射合うこと。多くは鏑矢〈かぶらや〉を用いた。 抜け駆け:先駆けの武功を立てようと、ひそかに自陣を抜けだし、人より先に敵に攻めかかること。 朝廷の臣下:鎌倉幕府といえども朝廷から征夷大将軍を任命され、官位を受けている。 先帝を流罪:先帝後醍醐を隠岐へ流罪とした。その他反乱分子への処罰。 先駆け:まっ先に敵陣に攻め入ること。 石の鳥居:四天王寺の西門の外にある石鳥居。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる浄土信仰の聖地であった。 本間がわざと興ざめなことを言ったのに、恩阿は石鳥居に何事か書き付けてなお期するところありと見えたので、本間も油断なく宵のうちから出発していった。 宵:古代では夜を3区分した一つで、日暮れから夜中までの間。 東条:大阪府富田林市東条。天王寺から直線23kmほど。河内平野の南端にあたり、平野将監軍が立てこもる赤坂城の北西麓。 石川:富田林市東部を流れる石川。途中どこかで石川を渡ったのだろう。 紺唐綾縅〈こんからあやおどし〉:たぶんこれは上質の仕立ての鎧なのだろう。 札〈さね〉:甲冑の材料となる鉄・革の小板。 縅す〈おどす〉:札を鱗のように数多く並べ重ね,糸・革でつづる。 母衣〈ほろ〉:後方からの矢を防ぐために背負う布袋。 鹿毛〈かげ〉:馬の毛色の名。茶褐色の毛。 本間が「…争ひても申すに及ばず」と言ったのに対して、恩阿が「申すにや及ぶ」としゃれて返している。意味は「…争っても意味がない」および「そういうことだな(あなたの言うとおりだな)」。 赤坂城:元弘乱の当初に楠木正成が立てこもって一度落城したのは北麓の出城「下赤坂城」で、ここでいう赤坂城は「上赤坂城」(別名楠木城)として史跡になっているものを指すと思われる。大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪。標高350m。比高150mほど。周辺の金剛山の尾根尾根には猫路山城・国見山城・枡形城・千早城等が築かれており、楠木の城塞群を形成していた。 赤坂城の兵たちは、恩阿・本間を見て時代錯誤の田舎者だとバカにしているのである。 源平合戦の一の谷の戦いは1184年。この赤坂城の戦いは1333年。150年ほどの差がある。 一の谷の戦いで、熊谷直実父子・平山季重らが抜け駆けをしたという話が「平家物語」などにある。 出塀〈だしべい〉:射撃や物見のために、城の塀の一部を外へ突き出したもの。 櫓〈やぐら〉:城壁などの上に造った建物で、展望・射撃の足場とした。 蓑毛〈みのげ〉:蓑に編み込んだ茅〈かや〉が毛のように立っている。 ここで何と! 戦う武者の他に念仏僧が戦場に同伴していることが判明! このような従軍僧の存在があってこそ、このような軍記も伝わっているのか? ここまで付き随うて最後の十念勧めつる由来の人:臨終の際に唱える十返の念仏を勧め聞き届けるためにここまで付き随ってきた、本間が帰依した時宗の僧。 他本では、本間だけでなく恩阿の首も貰い受けたとするものもある。 聖〈ひじり〉:時宗の念仏僧。 相摸殿:北条高時。 鳥辺野〈とりべの〉:京の鴨川以東の葬地の名であるが、ここでは一般の葬地の意味。 上宮太子〈じょうぐうたいし〉:聖徳太子のこと。聖徳太子の建立とされる四天王寺には、太子を祀る堂がある。 九品安養の台〈くほんあんようのうてな〉:九品浄土(九つの階層があると考えられていた浄土)の蓮の花の台。 今朝:そうしてみると、資忠が赤坂城に到着したのは夜中なのか? 中有〈ちゅうう〉:仏教用語。四有(しう)の一で、死有から次の生有までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。 慇懃〈いんぎん〉:真心がこもっていて、礼儀正しいこと。 逆木〈さかもぎ〉:棘のある木の枝で作った防御のための柵。 火を散らして:刀と刀が打ち合って、火花が散る。 老木〈おいき〉。 年老いて花の咲かない桜のような私だが、たとえ朽ち果てようとも、今度の戦功により名は死後も残ることだろう。 正慶元年:流布本の「正慶二年」(=元弘三年=1333年)が正しい。 正慶〈しょうきょう〉は北朝方の光厳天皇の年号。 畢んぬ〈おわんぬ〉:動詞「おわる」の連用形に完了の助動詞「ぬ」。〜してしまった。 しばらくお待ちください。子を思う煩悩の闇に迷っている父上に、私が冥途の六道の辻の道案内を致しましょう。 六の岐〈むつのちまた〉:六道の辻。 仲春〈ちゅうしゅん〉:陰暦二月。 恩義:報いなればならない恩。 忠貞:忠義と貞節。 黄壌一堆〈こうじょういったい〉:黄色い土を盛った小さな墓。 青雲九天〈せいうんきゅうてん〉:晴れ渡った大空。九天は、古代中国で、天を方角により九つに区分したもの。中央を鈞天(きんてん)、東方を蒼天(そうてん)、西方を昊天(こうてん)、南方を炎天、北方を玄天、東北方を変天、西北方を幽天、西南方を朱天、東南方を陽天という。 三十一字〈みそひともじ〉:和歌(短歌)のこと。五・七・五・七・七計31文字。 |
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考察
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