歴史index 武蔵武士 人見氏   2014.8.18
太平記に出てくる人見四郎入道恩阿
冨田悦哉
東京都府中市の浅間山の尾根上に「人見四郎墓跡(真偽は不明)」という場所がある。
その人見四郎入道恩阿は、現在の埼玉県深谷市人見を本拠とした武蔵武士であり、太平記の物語に登場する人物である。
太平記を読んでみる。
 
  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。

 
メモ
太平記 (岩波文庫 2014年4月6日発行)
兵藤裕己校注 京都の龍安寺所蔵の西源院本を底本とする

第六巻 9 赤坂合戦の事并人見本間討死の事

 赤坂の城へ向かはれける大将赤橋右馬頭、後陣の勢を待ち調へんがために、天王寺に両日逗留ありて、「二月三日午刻に、矢合はせあるべし、もし抜懸けの輩に於ては、罪科たるべき」由をぞ触れられける。
 ここに、武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿と云ふ者ありけるが、本間九郎に向かつて語りけるは、「御方の軍勢、雲霞の如くなれば、敵の城を攻め落とさんずる事は疑ひなし。但し、事の様を案ずるに、関東天下の権を取って、すでに七代に余れり。天満てるを欠く理り、遁るる所なし。その上、臣として君を流し奉りし積悪、豈にはたしてその身を滅さざらんや。恩阿、不肖の身なりと云へども、武恩を蒙つて、齢すでに七十三になりぬ。今より後さしたる思ひ出もなき身の、そぞろに長活きして、武運の傾かんを見んも、老後の恨み、臨終の障りともなりぬべければ、明日の合戦に先懸けして、一番に討死して、その名を末代に残さんと存ずるなり」と語りければ、本間九郎、心の中にはげにもと思ひながら、今度の合戦には、誰と云ふとも前をば懸けらるまじきものをと思ひければ、「枝葉の事を宣ふものかな。これ程の打ちこみの軍に、そぞろなる前懸して討死したりとても、さしたる高名ともいはるまじ。ただそれがしは人なみなみに振る舞はんと存ずるなり」と申しければ、恩阿、よにも無興げにて本堂の方へ行きければ、本間、怪しく思ひて人を付けて見せければ、矢立を取り出だして、石の鳥居に何事とは知さず一筆書き付けて、己れが宿へぞ帰りける。本間、さればこそ、この者に明日の先懸けせられぬと、心ゆるしもなかりければ、まだ宵より打ち立つて、ただ一騎、忍びやかに東条を指してぞ向かひける。

第六巻 9 赤坂合戦の事ならびに人見・本間討死の事

 赤坂の城へ向かっていた大将赤橋右馬頭は、後続する軍勢を待ち態勢を調えようと、天王寺に二日間滞在して、「二月三日午の刻に、矢合わせとする。もし抜け駆けをする者があったら、罪を問う」と配下に通達した。
 この軍勢の中に、武蔵国の住人で人見四郎入道恩阿という者がいたが、本間九郎資頼に向かって、「味方の軍勢は大軍であるから、敵の城を攻め落とすだろうことは疑いない。だが、世の情勢を考えてみると、関東の鎌倉幕府が政権を取って、すでに七代を超えている。自然の、満ちたものは欠けるという理を逃れることはできない。そのうえ、朝廷の臣下でありながら先帝を流罪にする等の悪行を積んでいる。こんなことをしていて破滅しないということがあるだろうか。私は、不肖の身ではあるが、鎌倉幕府の恩恵を受けて、齢はすでに七十三になった。これから後たいした望みもない身なのに、意味もなく長生きして、幕府が没落していくのを見るのは、老後の心残りとなって、安らかな臨終の障害となるだろうから、明日の合戦で先駆けして、一番に討死して、名前を後代に残そうと思う」と語りかけた。
 本間九郎は、心の中ではその通りだと思ったが、今度の合戦では、誰だろうと自分より先に駆けさせはしないと思っていたので、「つまらぬ事を言うものだ。これほどの大勢が乱れての戦に、むやみに先駆けをして討死したとしても、たいした功名とは言われないだろう。ただ自分はごく人並みに振る舞おうと思いますよ」と応じた。
 すると恩阿が非常に興ざめた様子で本堂の方へ行ってしまったので、本間は不審に思って、人に後を付けさせて様子を見たところ、恩阿は矢立を取り出だして、石の鳥居に何事かを人知れず一筆書き付けて、自分の宿所へ帰って行った。本間は、「思ったとおりだ、この者に明日の先駆けをされてしまう」と油断することがなかったので、まだ宵のうちから出発して、ただ一騎のみで、密かに東条を指して向かった。

 石川河原にて夜を明かし、朝霞の晴れ間より南の方を見たれば、紺の唐綾の鎧に白き母衣懸けて、鹿毛なる馬に乗つたる武者ただ一騎、赤坂の城へ向けてぞ歩ませたる。何者やらんと、馬を打ち寄せてこれを見れば、人見四郎入道恩阿なりけり。人見、本間を見て、「夕べ宣ひし事を実とばし思ひたらば、孫程なる人に出し抜かれまし」と、からからと打ち笑うて、頻りに馬を早めたり。本間、跡に追つ着いて、「今は互ひに前を争ひても申すに及ばず。一所にて尸を曝して、冥途までも同道申さんずるぞよ」と申しければ、人見、「申すにや及ぶ」と返事して、跡になり前になり、物語りして打ちけるが、赤坂の城近くなりければ、二人の者ども、馬の鼻を並べて懸け上げ、堀の際まで打ち寄せて、鐙踏んばり弓杖突きて、大音声を揚げて名乗りけるは、「武蔵国の住人人見四郎入道恩阿、年積もつて七十三、相摸国の住人本間九郎資頼、生年三十七、鎌倉を出でし初めより、軍の前陣を懸けて、尸を戦場に埋まん事を存じて罷り向かつて候ふなり。城中にわれと思はん人、出で合うて、手柄の程を御覧ぜよ」と、声々に呼ばはつて、城を睨んでひかへたり。
 城の中の者ども、これを見て、「これぞとよ、坂東武者の風情。これは熊谷、平山が一谷の前懸けを聞き伝へて、羨しく思へる者どもなり。跡を見るに続く武者もなし。またさまでの大名とも見えず。溢れ者の不敵武者、跳り合うて、命失うて何かせん。ただ置いて、事の様を見よ」とて、東西鳴りを静めて返事もせず。人見、腹を立て、「われら二人、早旦より向かつて名乗れども、城中より矢の一つも射出ださぬは、臆するか、敵を侮るか、いでいでその儀ならば、手柄の程を知らせん」と云ふままに、馬より飛んで下り、堀の上に渡したる細橋をさらさらと走り渡り、二人の者ども、出塀の脇に引つ傍うで、木戸を切つて落とさんとしける間、城中、これに騒ぎて、櫓の上より雨の降る如くに射ける矢、二人の者どもが鎧に、蓑毛の如くに射立てたり。本間も人見も、元来討死せんと出で立つたる事なれば、なじかは一足も引き退くべき。命を限りに戦うて、二人一所に討たれにけり。

 石川の河原で夜を明かし、朝霞の晴れ間から南の方を見ると、紺色の唐綾で札を縅した鎧に白い母衣を懸けて、鹿毛の馬に乗った武者が一騎、赤坂の城へ向かっているところである。いったい誰だろうと、馬を寄せて見ると、人見四郎入道恩阿であった。人見は、本間を見て、「昨夜あなたが言った事を本心と信じてしまったら、孫ほどの齢の者に出し抜かれるところだった」と、からからと笑って、ますます馬を早めて行った。本間は、後に追い着いて、「こうなったら互いに先駆けを争っても申すに及ばず。同じ場所に屍を曝して、冥途までも同行しましょう」と言うと、人見は、「申すにや及ぶ」と返事して、後になり前になり、互いに話をしながら馬を進めて行った。
 やがて赤坂の城が近くなると、二人の武者は、馬を並べて駆け上がり、堀のすぐそばまで寄って、鐙を踏んばり弓を地面に突いて、大きな声で名乗りをあげた。「武蔵国の住人人見四郎入道恩阿、年を重ねて七十三、相摸国の住人本間九郎資頼、当年三十七、鎌倉を出たときから、戦の先陣を駆けて、屍を戦場に埋める覚悟でやって来たのだ。城中でわれと思わん人は、出て戦い合って、私の武技の腕前を見るがいい」と、二人それぞれに呼びかけて、城を睨んで立っていた。
 城の中の兵たちは、二人を見て、「これが坂東武者というやつか。こいつらは昔の熊谷、平山の一谷の先駆けの話を聞き知って、あやかりたいと思った者たちだ。後を見ても続く武者もいない。またそれほどの有力者でもなさそうだ。落ちこぼれの無鉄砲な武者と渡り合って、命を失って何の得があるだろう。このまま放置して、様子を見よう」と言って、城山の東から西まで鳴りを潜めて返事もしなかった。
  人見は、腹を立てて、「われら二人、早朝からこうして来て名乗っているのに、城中から矢の一本も射てこないのは、臆病なのか、我々を侮辱しているのか。さあさあ、そちらがそういうつもりなら、こちらから腕前の程を見せてやろう」と言うなりに、馬から飛び降りて、堀の上に渡した細橋をさらさらと走り渡った。二人の武者が、出塀の脇に隠れ張り付いて、城の木戸を破ろうとするので、これには城中の兵も騒ぎだし、櫓の上から雨の降るように射る矢が、二人の武者の鎧に、蓑毛のように突き立った。しかし本間も人見も、もともと討死する覚悟でやってきたので、一歩も退くわけがない。命が続く限り戦って、二人とも同じ場所で討死したのだった。

 ここまで付き随うて最後の十念勧めつる由来の人、本間が頸を乞うて、天王寺へ持ち帰り、本間が子息源内兵衛資忠に、始めよりの有様をぞ語りける。資忠、父が頸を一目見て、一言をも出ださず、ただ涙に咽びて居たるが、いかが思ひけん、鐙を取つて肩に投げ懸け、馬に鞍置かせ、ただ一人打ち出でんとす。聖、怪しく思ひて、鎧の袖を引き留め、「これはいかなる事にて候ふぞ。御親父も、この合戦に前懸して、ただ名を天下の人に知られんと思し召すばかりならば、父子ともに打ち連れて向かはせ給ふべけれども、命をば相摸殿の御ために捨て、恩賞をば子孫の栄花に残さんと思し召しけるゆゑにこそ、人より前に討死をばし給ひつらめ。しかるを、思ひ篭むる処もなく、また敵陣に懸け入つて、父子ともに討死し給ひなば、誰かその跡を弔ひ、誰かその賞を蒙るべき。子孫無窮に昌ゆるを以て、父祖の孝行を顕す道とは申すなり。御悲歎の余りに、是非なく死を共にせんと思し召すは理りなれども、暫く思ひ留まらせ給ひ候へ」と、堅く制しければ、資忠、涙を押さへて、着たる鎧をぞ脱ぎ置きける。さては制止に拘らされぬと嬉しく思ひて、本間が頸を小袖に裹み、葬礼のために、辺りなる鳥辺野へぞ行きける。

  最後の十返念仏を勧めるためにここまで付き従ってきた時宗の僧は、本間の首を貰い受けて、天王寺へ持ち帰り、本間の子息源内兵衛資忠に、ことの始めからの出来事を語った。資忠は、父の首を一目見て、一言も口に出ださず、ただ涙に咽んで居たが、どのように思ったのだろうか、鐙を取って肩に担ぐと、馬に鞍を置かせ、ただ一人で出かけようとする。聖は、不審に思って、鎧の袖をつかんで引き留め、「あなたはいったい何をしようというのですか。お父上も、この合戦で一番乗りをして、ただ名前を天下に知られようと思っただけならば、父子いっしょに連れ立って行ったでしょうが、命を相摸殿のために捨てて、恩賞を子孫の繁栄のために残そうと思ったからこそ、他の誰よりも先に討死をしたのです。それなのに、父上の考えをよく理解しようとすることもなく、あなたまでが敵陣に駆け入って、父子ともに討死してしまっては、誰がその死後を弔い、誰がその恩賞を受け取るのでしょう。子孫が永遠に栄えることこそが、父祖への孝行を実行する道だといいます。悲嘆のあまりに思慮を失って、死を共にしようする思いはもっともですが、すこしの間に気持ちを落ち着けて思い止まってください」と、強く制止したので、資忠は、涙をこらえて、着ていた鎧を脱ぎ置いた。聖は、さては自分の制止に従ってくれたのだと嬉しく思って、本間の首を小袖に包み、葬礼のために近辺の鳥辺野へ行ってしまった。


 その間に、資忠、今は制し止むべき人なければ、上宮太子の御前に参り、「今生の栄耀は、今日を限りの命なれば、祈る所にあらず。ただ大悲の弘誓誠あらば、親て候ふ者の討死仕りぬる戦場の、同じ苔の下に埋もれて、九品安養の台に生まるる身となさせ給へ」と、泣く泣く祈念をして、夜とともにこそ立ち出でけれ。石の鳥居を見れば、父とともに討死したる人見四郎入道恩阿が書き付けたる歌あり。これぞげにも、後世までの物語りにも留むべき事よと思ひければ、右の小指を喰ひ切つて、その血にて一首をまた書き添へて、赤坂へぞ向かひける。
 城近くなりければ、馬より下り、弓を脇に挟みて木戸を敲き、「城中の人々に申すべき事候ふ」とぞ呼ばはりける。やや暫くあつて、兵一人、櫓の狭間より顔を差し出だして、「誰人にて御渡り候ふぞ」と問ひければ、「これは、今朝この城に向かつて討死仕つて候ひつる、本間九郎資頼が嫡子に、源内兵衛資忠と申す者にて候ふなり。人の親の子を思ふ憐れみ、心の暗に迷ふ習ひにて候ふ間、ともに討死せんずる事を悲しみ、われわれに知らせずして、ただ一人討死仕りけるにて候ふ。相伴ふ者もなくて、中有の途に迷ふらんも、さこそと思ひやられ候へば、同じく討死仕つて、冥途までも、父に事ふる道を厚くし候はばやと存じて、ただ一人罷り向かつて候ふ。城の大将にこの様を申され候ひて、木戸を開かれ候へ。親にて候ふ者の討死仕りつらん処にて、同じく命を止めて、その望みを達し候はん」と、慇懃に事を請うて、涙ぐみてぞ立つたりける。一の木戸を堅めて居たる兵五十余人、その志の高くして、義に向かふ所のやさしくあはれなるを感じて、忽ちに木戸を開き、逆木を引のけければ、資忠、城中へ懸け入つて、五、六十騎の敵と火を散らして切り合ひけるが、つひに父が討たれしその跡にて、刀を口にくはへて、馬より倒に飛び下り、貫かれてぞ死ににける。

  その間に資忠は、もう制止する人もいないので、上宮太子の堂の前に参ると、「この世での栄華については、今日が最後の命なので望みません。ただ太子様の衆生を情け深く救おうという誓いが真実ならば、父が討死した戦場の、同じ苔の下に埋もれて、いっしょに九品安養の台の上に生まれ変わるようにしてください」と、泣きながら祈念して、夜になるとともに出発して行きました。途中で石の鳥居を見ると、父とともに討死した人見四郎入道恩阿が書き付けた歌があった。これこそ実に、後世まで語り伝えられる方法であると思ったので、右手の小指を噛み切って、その血で歌一首を資忠もまた書き加えて、赤坂へ向かった。
 城が近くなったので、馬から降り、弓を脇に挟んで城の扉を叩き、「城中の人々に言いたい事があります」と呼びかけた。すこし間があって、兵が一人、櫓の狭間から顔を差し出だして、「誰がやって来たのか」と聞いたので、「私は、今朝この城に立ち向かって討死をした本間九郎資頼の嫡子で、源内兵衛資忠という者です。子を持つ親というものは、子を思い憐れむあまり心の闇に迷うものですが、私の父も、私がいっしょに討死する事を悲しんで、私には知らせずに、ただ一人で討死したのです。同伴する者もないので、中有の道で迷うことも、さぞかしだろうと思いやられますので、私も同じく討死して、冥途までも付いて行って、父への孝行を尽くそうと考えて、ただ一人でやって来たのです。城の大将にこのことを伝えて、扉を開いてください。父の討死した場所で、私も同じように命を捨てて、その望みを達しようと思います」と、慇懃に要求を伝えて、涙ぐんで立っていた。一の木戸を守備していた兵五十余人は、資忠の志が高く、孝行に一途であるところを健気にも哀れにも感じて、すぐに木戸を開き、逆木を取り払った。資忠は、馬で城中へ駆け入って、五、六十騎の敵と火を散らして切り合ったが、ついに父が討たれたその場所で、刀を口にくわえて、馬から逆さまに飛び降り、刀に体を貫かれて死んだのだった。


 惜しきかな、父の九郎は、双びなき弓馬の達者にて、国のために要須たり。また、資忠はためしなき忠孝の勇士にて、家のために栄名あり。人見は年老い、齢傾きぬれども、義を知り命を知る事、時とともに消息す。この三人、同時に討死しぬと聞こえければ、知るも知らぬも押し並べて、歎かぬ者はなかりけり。
 すでに前懸けの兵ども、抜懸けに赤坂の城へ向かつて討死する由披露ありければ、大将、則ち天王寺を立つて向かはれけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見るに、左の柱にぞ、
  花さかぬ老木の桜朽ちぬともその名は苔の下にかくれじ
と一首の歌を書いて、「武蔵国の住人人見四郎入道恩阿、老年七十三にして、正慶元年二月二日、赤坂の城に向かひ、武恩を報ぜんために討死し畢んぬ」と書きたり。その右の柱に、
  まてしばし子を思ふ闇にまよふらむ六の岐の道しるべせむ
と詠みて、「相摸国の住人本間九郎資頼が嫡子、源内兵衛資忠、生年(十八)、正慶元年仲春二日、父の死骸を枕にて、同じく戦場に命を止め畢んぬ」とぞ書いたりける。父子の恩義、君臣の忠貞、この二首の歌に顕れて、骨は黄壌一堆の下に朽ちぬとも、名は止まつて、青雲九天の上に高し。今に至るまで、その石碑の上に消え残れる三十一字を見る人の、感涙を流さぬはなかるべし。

  惜しいことであった。父の本間九郎資頼は、他に比べるものがないほどの弓・馬の達人で、国のために欠かせぬ人物であった。また、子の資忠は過去に例がないほどの忠孝の心を持った勇士で、家のために名誉をもたらした。人見四郎入道恩阿は年老いていたが、道義をわきまえ天命を知り、時勢の変化に従って身を処した。このような三人が一度に討死したという知らせに、彼らを知る人も知らない人も、歎かない者はなかったのである。
 禁止しておいたにも関わらず、すでに先駆けをしようという兵が、抜け駆けして赤坂の城へ攻めかかって討死したという報告があったので、大将赤橋右馬頭は、すぐに天王寺を出発したが、上宮太子の堂の前で馬から降り、石の鳥居を見ると、左の柱に、

   花さかぬ老木の桜 朽ちぬとも その名は苔の下にかくれじ

と 一首の歌が書いてあり、「武蔵国の住人人見四郎入道恩阿、老年七十三にして、正慶元年二月二日、赤坂の城に向かひ、武恩を報ぜんために討死し畢んぬ」と書いてあった。その右の柱に、

   まてしばし 子を思ふ闇にまよふらむ 六の岐の道しるべせむ

と詠んで、「相摸国の住人本間九郎資頼が嫡子、源内兵衛資忠、生年十八、正慶元年仲春二日、父の死骸を枕にて、同じく戦場に命を止め畢んぬ」と書いてあった。父と子の間にある恩義、君と臣の間にある忠貞が、この二首の歌に表現されていて、骨は黄壌一堆の下に朽ち果てても、名は後世に残って、青雲九天の上ほどに誇り高い。だから今に至るまで、その石碑の上に消え残っている三十一字を見る人で、感動の涙を流さない者はいないのである。









































人見:武蔵国榛沢〈はんざわ〉郡人見の武士、人見四郎光行(入道して恩阿〈おんあ〉)

入道:仏道に入った者。在家入道、出家入道もある。

本間:相模国愛甲郡依智〈えち〉の武士、本間資頼。別本では「資貞」。

赤橋右馬頭:赤橋氏は北条一門。別本では「阿曾弾正少弼」などともなっている。阿曾氏も北条一門。

天王寺:大阪市天王寺区にある寺院「四天王寺」。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。交通の要衝にあった。

午の刻〈うまのこく〉:現在の昼12時前後2時間頃を指す語。

矢合わせ:戦いを始める合図に、矢を双方から射合うこと。多くは鏑矢〈かぶらや〉を用いた。

抜け駆け:先駆けの
武功を立てようと、ひそかに自陣を抜けだし、人より先に敵に攻めかかること。

朝廷の臣下:鎌倉幕府といえども朝廷から征夷大将軍を任命され、官位を受けている。

先帝を流罪:先帝後醍醐を隠岐へ流罪とした。その他反乱分子への処罰。

先駆け:まっ先に敵陣に攻め入ること。

石の鳥居:四天王寺の西門の外にある石鳥居。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる浄土信仰の聖地であった。

本間がわざと興ざめなことを言ったのに、恩阿は石鳥居に何事か書き付けてなお期するところありと見えたので、本間も油断なく宵のうちから出発していった。

宵:古代では夜を3区分した一つで、日暮れから夜中までの間。

東条:大阪府富田林市東条。天王寺から直線23kmほど。河内平野の南端にあたり、平野将監軍が立てこもる上赤坂城の北西麓。

























石川:富田林市東部を流れる石川。途中どこかで石川を渡ったのだろう。

紺唐綾縅〈こんからあやおどし〉:たぶんこれは上質の仕立ての鎧なのだろう。

札〈さね〉:甲冑の材料となる鉄・革の小板。

縅す〈おどす〉:札を鱗のように数多く並べ重ね,糸・革でつづる。

母衣〈ほろ〉:後方からの矢を防ぐために背負う布袋。

鹿毛〈かげ〉:馬の毛色の名。茶褐色の毛。

本間が「…争ひても申すに及ばず」と言ったのに対して、恩阿が「申すにや及ぶ」としゃれて返している。意味は「…争っても意味がない」および「そういうことだな(あなたの言うとおりだな)」。

上赤坂城:大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪。標高350m。比高150mほど。北麓の出城を「下赤坂城」と呼ぶのに対して。別名を楠木城。周辺の金剛山の尾根上には猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。

赤坂城の兵たちは、恩阿・本間を見て時代錯誤の田舎者だとバカにしているのである。
源平合戦の一の谷の戦いは1184年。この赤坂城の戦いは1333年。150年ほどの差がある。
一の谷の戦いで、熊谷直実父子・平山季重らが抜け駆けをしたという話が「平家物語」などにある。

出塀〈だしべい〉:射撃や物見のために、城の塀の一部を外へ突き出したもの。

櫓〈やぐら〉:城壁などの上に造った建物で、展望・射撃の足場とした。

蓑毛〈みのげ〉:蓑に編み込んだ茅〈かや〉が毛のように立っている。





















ここで何と! 戦う武者の他に念仏僧が戦場に同伴していることが判明!
このような従軍僧の存在があってこそ、このような軍記も伝わっているのか?

ここまで付き随うて最後の十念勧めつる由来の人:臨終の際に唱える十返の念仏を勧め聞き届けるためにここまで付き随ってきた、本間が帰依した時宗の僧。

他本では、本間だけでなく恩阿の首も貰い受けたとするものもある。

聖〈ひじり〉:時宗の念仏僧。

相摸殿:北条高時。

鳥辺野〈とりべの〉:京の鴨川以東の葬地の名であるが、ここでは一般の葬地の意味。










































上宮太子〈じょうぐうたいし〉:聖徳太子のこと。聖徳太子の建立とされる四天王寺には、太子を祀る堂がある。

九品安養の台〈くほんあんようのうてな〉:九品浄土(九つの階層があると考えられていた浄土)の蓮の花の台。




今朝:そうしてみると、資忠が赤坂城に到着したのは夜中なのか?

中有〈ちゅうう〉:仏教用語。四有(しう)の一で、死有から次の生有までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。

慇懃〈いんぎん〉:真心がこもっていて、礼儀正しいこと。

逆木〈さかもぎ〉:棘のある木の枝で作った防御のための柵。

火を散らして:刀と刀が打ち合って、火花が散る。







































老木〈おいき〉。

年老いて花の咲かない桜のような私だが、たとえ朽ち果てようとも、今度の戦功により名は死後も残ることだろう。

正慶元年:流布本の「正慶二年」(=元弘三年=1333年)が正しい。
正慶〈しょうきょう〉は北朝方の光厳天皇の年号。

畢んぬ〈おわんぬ〉:動詞「おわる」の連用形に完了の助動詞「ぬ」。〜してしまった。

しばらくお待ちください。子を思う煩悩の闇に迷っている父上に、私が冥途の六道の辻の道案内を致しましょう。

六の岐〈むつのちまた〉:六道の辻。

仲春〈ちゅうしゅん〉:陰暦二月。

恩義:報いなればならない恩。

忠貞:忠義と貞節。

黄壌一堆〈こうじょういったい〉:黄色い土を盛った小さな墓。

青雲九天〈せいうんきゅうてん〉:晴れ渡った大空。九天は、古代中国で、天を方角により九つに区分したもの。中央を鈞天(きんてん)、東方を蒼天(そうてん)、西方を昊天(こうてん)、南方を炎天、北方を玄天、東北方を変天、西北方を幽天、西南方を朱天、東南方を陽天という。

三十一字〈みそひともじ〉:和歌(短歌)のこと。五・七・五・七・七計31文字。

考察

事件当時および『太平記』の編纂過程での浄土信仰の影響を考えないわけにはいかない。
人見四郎は在家入道していて、法名は恩阿(恩阿弥陀仏)である。
本間父子は時宗僧を伴って参陣しており、子の資忠の言動からして熱心な浄土信仰を持っていたようだ。

また太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられていたのであるが、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として多くの信者を集め、四天王寺は浄土信仰の寺としての性格も持っていた。
この物語の舞台の一つとなっている天王寺と西門の石鳥居は、浄土信仰に関係の深い場所なのである。

そもそも、主人公が死んでしまっているこの物語が伝えられたのは、戦場の間近に時宗僧がいたことが大きいと思われ、浄土信仰の物語として報告された可能性がある。

それにしても、現代的な感覚からは理解しがたい話である。
主人公3人の死に方は自殺に近い。それぞれの理屈はあるのだが、本当にその見込んだ結果が得られるのだろうかと、疑問に思ってしまう。

本間九郎資頼について
軍規に反して抜け駆けして死ぬことが、果たして恩賞の対象になるのだろうか。
敵にほとんど損害を与えることもなく、味方の作戦にとって益となることは無く、ただ一番に敵と接触したというのみである。
その中で重みがあるとすれば「本人の死」であるが、37歳壮年の命がこのような使われ方をされるとは、何とも軽いと言わざるをえない。
武士にとって戦で手柄をアピールして恩賞を得て、所領を安堵することが人生最大の任務であった。それができなければ、個人の命に存在意義はなかったのか。 集団戦の中では自分の手柄をアピールすることなく終わってしまうかもしれず、この抜け駆けの機会を逃すことはできない、と思いつめたのかもしれない。
このような使命を達成するために、個人的な恐怖や苦悩はなかったのか? それを克服したのは自分は武士であるという自負と浄土の信仰だったのだろう。

本間資忠について
父資頼の遺志は、子資忠が家を継いで、父の命と引き換えに得る(かもしれない)恩賞と名誉を受け継いでくれることだった。
ところが、資忠は父の後を追って死を急ぐ。しかもこれまた、戦いというよりは死ぬための死である。
時宗僧でさえ、父の遺志をくんで現世の親孝行を実行するよう勧めているにもかかわらずである。親の立場からすれば、まったく頓珍漢な息子である。
浄土への憧れが勝ってしまい、父を浄土へ到達させるという孝行のために、現世的な孝行を捨て置いてしまった。
親の浄土信仰への熱心さが、子に効きすぎたのであろうか。としたら、武士の家の子に対する武士教育の方は大失敗だったということになる。今も昔も、子どもは親が思ったとおりには育ってくれない、という見本の一つに読めてしまうのだが。

人見四郎入道恩阿について
武蔵国の一地域の土豪なのである。討死の時点では既に家督は譲っていたかと思うが、榛沢郡人見に館を構え、菩提寺も建立した一族の長なのである。
自分としては現世でやるべきことは為し終えたという感があったかもしれない。後は現世の締めくくりをどこでどうするか、自分の美学に従って決めるだけである。
そういう自分本位的な部分では、本間父子よりも現代的な理解はしやすいかもしれない。
しかし死に方の選択は適当だったのだろうか。恩阿本人としては、敵と刀を打ち合って華々しい戦闘の末に討死することをイメージしていたと思う。ところが城方は木戸を固く閉ざして、恩阿の《美学》に呼応してくれない。あげくには散々に矢を射かけられてハリネズミにされて討死である。これでよかったのか、恩阿よ? 

このように3人の死に方は、どうもパッとしない。本人の心積もりに照らしても期待した結果が得られたのか疑問であり、はっきり言って犬死である。
しかし、『太平記』の一場面として収録された。
『太平記』は収録した手前か、3人の死を称賛している。誇張でなく本気で称賛しているのだろうか?
誰も容易に真似をしないことをやった、ということでは得難い記事かとは思う。

ともかくも恩阿は、『太平記』という後世でメジャーになった書物の上で名を残すことに成功した。
『太平記』は中世から物語僧の「太平記読み」によって語られ、江戸時代には講釈師業が成立した。
戦国武将にとっては『太平記』を兵法書の側面から捉え、江戸期に至るまで武士にとって不可欠ともいえる兵法書となっていた。
また「往来物」の一書として初等学問におけるテキストの役割も担って、農民・町人にも広く読まれたのである。
おそらく江戸時代には、「あの太平記に出てくる人見四郎恩阿」という位置を獲得していただろう。

現代では「人見四郎ってだれ?」という感じだが、江戸時代ではもっと知られた名前だったはずである。
とくに武蔵国多磨郡の人見村では、同じ「人見」の名を持つ有名人ということで親近感を持たれたのではないか。
植田孟縉編纂の「武蔵名勝図絵」のように、多磨郡人見村はかつて人見氏が住んだ地だと、関係付ける説もあったくらいである。
人見村の篤志家が、「人見」のよしみで人見四郎の供養碑を人見山(浅間山)の尾根上に立てたということもあったかもしれず、それが「墓跡」として伝承されているのかもしれない。
(「小野小町の墓」が全国各地に在るのと同様である。)

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