歴史index 武蔵武士 人見氏   2013.12.22  改訂2014.09.27
人見四郎(東京都府中市浅間山に墓跡が伝承される)についてのメモ
冨田悦哉
ふるさとの山、浅間山の前山にある 「人見四郎の墓跡」とは何なのか?
人見四郎とはどのような人だったのか?
どうして浅間山に人見氏の遺跡(?)があるのか?
 
  これは私の勉強のため に資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。

『武蔵武士』八代国治・渡辺世祐著 有峰書店新社 昭和46年(1971年)3月30日発行
『新編武蔵風土記稿』 明治17年6月 内務省地理局版 (国立国会図書館デジタルライブラリー)
『新編武蔵風土記稿』 平成8年6月20日 蘆田伊人校訂 雄山閣版
『武蔵名勝図会』 片山迪夫校訂 慶友社 1993年1月22日新装発行

・「人見四郎の墓跡」という伝承
・人見氏について
・『武蔵武士』の内容から書き起こした系図
・『武蔵名勝図会』記載の系図
・埼玉県深谷市における人見氏の遺跡
・『新編武蔵風土記稿』 榛沢郡の項 から
・東京都府中市における「人見」
・『新編武蔵風土記稿』 多磨郡の項 から
・『武蔵名勝図会』の内容から
・平家物語に出る人見四郎(A)
・太平記に出る人見四郎(B)
・その他の人見四郎入道恩阿に関する資料
・各地における「人見」という地名
・考察
 
メモ
「人見四郎の墓跡」という伝承

 浅間山(東京都府中市)の前山の尾根上東端に黒い石碑で「人見四郎の墓跡」を示している。
 碑には、「ここは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武士人見四郎の墓跡と伝えられる 平成二年三月 府中市教育委員会」と記されている。

 市教委が建てる前にも標柱が立っていたことがあるらしいが、平成2年(1990年)に府中市教育委員会が石碑を建てたのである。
 ただし府中市郷土の森博物館に問い合わせたところでは、発掘調査といえるような事はなされていないらしい。教育委員会が碑を建てた経緯は不明である。教育委員会建立の碑は墓跡の伝承があることを示すのみである。


人見四郎との出会いです。

前山: 浅間山〈せんげんやま〉の3つの頂のうち、もっとも南西側の頂。

府中市教育委員会が建てた碑は「伝承がある」ことを示しているだけ。

人見氏について

『武蔵武士』の内容から

武蔵七党の一つ猪俣党の河勾(かわわ)政基の子・政経が武蔵国榛沢郡人見の地を領して人見六郎と称した。系図では同じ猪俣党の岡部清重も人見を名乗ったようである。

人見四郎入道光行の子行氏は、北条氏滅亡ののち丹波国高瀬郷出雲村に移住したという。

人見又七郎長俊は軍功によって丹波国馬地道を賜り移住したという。

江戸時代の有名な儒者人見友元(竹洞)は長俊の子孫だという。

人見一族の中には常陸国に赴き佐竹義宣の家臣になったものもあるという。


Wikipedia「人見氏」から

人見氏は武蔵国幡羅郡人見邑を発祥とする一族である。本姓は小野氏。家系は武蔵七党のひとつ猪俣党の支流とされる。猪俣五郎時範の四世、政経とその従弟清重を祖とするという。

常陸守護職佐竹氏家臣の人見氏は本姓を藤原氏とする。武蔵国の住人人見駿河守が佐竹氏の祖となる源義業の常陸国移住に随従するという。


武蔵七党: 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。

猪俣党〈いのまたとう〉: 武蔵七党の横山党と同じく小野篁の末裔を称する。

小野篁〈おののたかむら〉: 802-853年。平安時代前期の公卿・文人。陸奥の守に任ぜられた父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたという。逸話が多い。

北条氏・鎌倉幕府滅亡: 1333年。

榛沢〈はんざわ〉郡: 現在の埼玉県深谷市の大部分と寄居町など。深谷市中心街や人見を含む。

幡羅〈はら〉郡: 現在の埼玉県熊谷市と深谷市の一部。

榛沢郡と幡羅郡は隣接している。(ちなみに総領猪俣氏・河勾氏の本拠は児玉郡・幡羅郡。)
埼玉県内で人見といえば、現深谷市の人見である。もと人見村>合併して藤沢村(榛沢郡)>合併して大里郡>合併して深谷市。なので人見村は榛沢郡である。
中世において幡羅郡の勢力が卓越していたとすると、人見村を幡羅郡にみなす考えもあったのか?

丹波国高瀬郷出雲村: 現在の京都府亀岡市千歳町出雲か? (現在の出雲大神宮の周辺)

丹波国馬地道: 丹波国馬路(現在の京都府亀岡市馬路町)か?

人見友元(竹洞): 1638-1696年。京都生まれ。将軍家光〜綱吉の信任を得て幕府の修史、書記役を主とした。詩文もあり。

常陸国: 現在の茨城県ほぼ全域を占めた。

佐竹義宣〈よしのぶ〉: 1570-1633年。常陸国に勢力を張った戦国大名。久保田藩(秋田藩)の初代藩主。

保元の乱〈ほげん〉:平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題等により後白河天皇方と崇徳上皇方が武力衝突に至った政変。

平治の乱〈へいじ〉:平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立による政変。結果、平氏勢力の独占につながった。

『武蔵武士』の内容から書き起こした系図

  小野篁……小野孝泰(武蔵守。横山庄祖)┬時資(横山介三。武蔵介)―(猪俣党)時範 ─ 忠兼 ─┐
                     │                           │
                     └(横山党)義考(横山大夫。武蔵権介)         │
                                                 │
  ┌──────────────────────────────────────────────┘
  │
  ├─忠基 ─(河勾)政基 ─(人見)六郎政経 ┬太郎高経………四郎光行(恩阿)― 行氏(丹波出雲村)
  │                      │     
  └(岡部)忠綱 ─ 清綱 ─(人見)清重   └小三郎行経……又七郎長俊(丹波馬地道)……友元(竹洞。江戸期儒者)



【この系図についての疑義】
『武蔵武士』には、政経の次子行経、其子高経、高経の弟行経、行経の孫長俊というように書いてある。
しかし、「政経の次子行経、長子高経」の誤記と判断して系図を作成した。
「太郎」高経、「小三郎」行経はそのままとした。

『武蔵名勝図会』記載の系図

  時資(横山介三郎)─ 時範(猪俣兵衛尉)─ 忠兼(野三郎)─┐
                                │
  ┌─────────────────────────────┘
  │
  ├忠基(野太郎)─── 政基(河勾五太夫)─ 政経(人見六郎。この人始めて人見村(*)に住す。是より子孫多し)───┐
  │                                                         │
  ├政家(猪俣小彌太)─ 資綱(猪俣小二郎)─ 範綱(猪俣小平太。保元平治の乱に先陣す。一の谷合戦に越中前司を討つ) │
  │                                                         │
  └忠綱(岡部六太夫)─ 行忠(岡部六郎)─ 忠澄(岡部六彌太。一の谷にて軍功あり。平忠度を討つ)          │
                                                            │
  ┌─────────────────────────────────────────────────────────┘
  │
  ├高経(人見小三郎。東鑑に見ゆ)─ 忠衡(人見四郎。平家物語に見ゆ。この忠衡より五代人見四郎入道光行)───────┐
  │                                                         │
  └行経(人見八郎。承久記に見ゆ)                                          │
                                                            │
  ┌─────────────────────────────────────────────────────────┘
  │
  └高行(人見六郎)─ 高綱(人見太郎)─ 某(彦太郎)─ 光行(人見四郎入道恩阿。元弘の乱に討死。太平記に見ゆ)



【この系図についての疑義】
(*)何の説明も無く「人見村」とあるが、政経が人見を名乗った初めであることから、多摩郡府中人見
ではなく榛沢郡人見のことであろう。

「高経(人見小三郎。東鑑に見ゆ)、行経(人見八郎。承久記に見ゆ)」とあるが、『承久記』には見
当たらず、『東鑑』に「小三郎」と「八郎」が出てくる。
高経と行経のどちらが小三郎か、また八郎は誰かは不明である。

埼玉県深谷市における人見氏の遺跡

深谷市人見の仙元山 【フカペディア「浅間神社(人見)」から】

平地の中に突出する仙元山は、古くは人見山と呼ばれ、古来からの霊地であったことは疑いえない。
山頂に鎮座するのは浅間神社である。祭神は木花開耶姫命。
伝説には、源頼朝の富士の巻狩に際し、関東に浅間大神を八社まつったうちの一つだというのがある。

人見館跡 【深谷市ホームページ 埼玉県指定史跡から】

人見館は、平安時代末期に人見氏の館として築かれたと伝えられている。
人見氏は、武蔵七党の一つ猪俣党に属する河匂政経(かわにまさつね)がこの地に住んで人見六郎と名乗ったのに始まる。
室町時代の中頃には深谷上杉氏の一族の上杉憲武が、人見氏の館跡を改修して居住したが、現在見られる土塁や空堀はこの時の姿をとどめていると考えられる。

一乗寺

泰国山人見院一乗寺。時宗。本尊は阿弥陀三尊立像。
正応2年(1289年)開基・人見四郎泰国、開山・一遍上人。

人見氏の墓 【深谷市指定記念物(史跡)】

深谷市一乗寺の参道に面して人見氏の墓といわれる五輪塔3基、板碑2基がある。







仙元山〈せんげんやま〉: 標高98.1m。周囲との比高35mほど。平地に突出して、東京都府中市の浅間山とそっくりの立地である。一帯が深谷市
仙元山公園となっている。

浅間神社〈せんげんじんじゃ〉: JR高崎線深谷駅から南西へ2kmほど。
仙元山頂上にある。

浅間大神を八社まつった: どんな伝説であろうか。八社とはどこ?
「八」の末広がりの形は富士の山型に通じると考えられたのか、浅間信仰では「八社」とか8という数字が関連深いようである。

(参考)八郡参り〈やこおりまいり〉: 足利北部名草岡成の「浅間講」では、富士山に登拝する代わりに浅間神社巡りをした。この講では、浅間神社参りをするときに「八郡参り」をするグループと「三十三社参り」をするグループがあった。奉納木額に「参國八郡八社修業」とある。三国とは栃木・群馬・埼玉のこと。八郡は、足利・簗田(梁田)・安蘇・山田・邑楽・新田・大里・(あと一つが特定できない。初山祭りの残る北埼玉郡、もしくは大平山がある都賀郡ではないかと考える。)
←このうちの「大里」は深谷市浅間神社のことと思われる。

人見館跡: 仙元山南西端から南へ250mほど行き、新仙元山配水場の角を右へ、用水路に沿って150mほど先の橋南岸。

一乗寺: 埼玉県深谷市人見1621−2。仙元山南西端から南へ900mほど。
正応〈しょうおう〉: 1288年から1292年まで。

人見四郎泰国: 人見四郎恩阿には泰国という名もあるのか?(恩阿の死から逆算すると、開基当時28歳ということになる。)

『新編武蔵風土記稿』 巻之二百三十 榛沢郡之一 から

郡図・総説 から

人見
人見家譜に、「その先武州人見郷を領せしゆえ、家号とす。元弘中に北条高時禅門滅亡の後、領知を失いし」というときは、古き地名なること知るべし。
按に一本人見系図に「人見六郎政経、その六代の孫人見四郎光行入道恩阿という、太平記に『武蔵国の住人人見四郎入道恩阿父子討死の事』あり。この人世々領せし地なりし」と見ゆ。
また貞治二年五月、管領基氏、鎌倉の内西御門村法華堂へ寄進状にも、武蔵国榛沢郡人見郷と載す。今庄名あるいは村名にもこの唱えあり。

浅間山
山上に浅間社あり、故に号す。天正八年上杉三郎が文書には「富士山」と記せり。この山、人見・樫合・上野台の三村に跨がれり、故に一名を人見山ともいう。なお人見村の条と併せ見るべし。


元弘〈げんこう〉: 1331年から1333年まで。

太平記の記事は「恩阿父子」でなく、「恩阿および本間父子」である。

貞治〈じょうじ〉: 北朝が使用。1362年から1367年まで。

管領基氏〈かんれい・もとうじ〉: 足利基氏は、足利尊氏の四男で初代鎌倉公方。関東管領は鎌倉公方の補佐をする職なので、「管領基氏」というのは誤りか。

西御門村: 鎌倉幕府の西門があったことに由来している。

浅間山: 現代では仙元山と表記している。

天正〈てんしょう〉: 1573年から1592年まで。

上杉三郎: ? 後の項を参照のこと。

『新編武蔵風土記稿』 巻之二百三十一 榛沢郡之二 から

深谷領之一 から

人見村(附持添新田)
人見村は、江戸の行程前村に同じ。櫛引郷人見庄と唱う。
古は人見某が采邑なり。家譜を閲するに、「姓は藤原、その先武州人見の郷を領すゆえに称号とす。元弘年中平高時滅亡の後、領地を失い、丹波国高瀬郷出雲里に寓居す」と見ゆれば、彼が采地たること明らかなり。
鎌倉大草紙に、康正二年、上杉武蔵入道性順息男右馬允房顕、武州人見へ打ち出し、深谷へ城を取り立て、これに依って成氏公・鳥山・高山を岡部原へ向かいて責む、上杉敗軍云々」と見えたれば、今の岡部村より当村の辺りまでその頃の戦場にて、打ち続きし原野なること知らる。
なお総説人見郷の条併せ見るべし。
家数百十。東は上野台村、南は折之口村、西は大谷・樫合の二村、北は鼠新田村なり。東西三十町余、南北二十町。
御入国以前、領主の遷替は前村に同じく、それより後は岡田某が知行にて、今子孫出雲守に至れり。検地は宝永四年地頭の改めあり。村西に持添新田あり。延享二年九月神尾若狭守検地し、貢税の地となれり。すなわち当村をはじめ、岡部・栢合・樫合・上大谷・宿根・伊勢方・普済寺・榛沢・針ヶ谷・本郷・用土・飯塚・原宿・猿喰土・萱場十六村に分配して、その村々の持添とす。これを櫛引野新田と唱え、御代官支配す。あるいは「櫛」を「串」に作り、「引」を「挽」に作れるあり。これは文字を仮借するままにて、その義あるに非ざるべし。

高札場

小名 
中組 川向 松原 清水 政所 宮下 吹張 念代 前柳沢 元屋敷 向在家 龍ヶ谷戸 後柳沢

浅間山
人見山とも唱う。高さ四、五丁ばかり。松樹生い立てり。山の麓は樫合・上野台村もかかれり。
山上に浅間社あり。こは上杉某の勧請という。昌福寺持ちにて、村の鎮守とす。
彼の寺に蔵する天正八年氏憲が寄附状に「富士山」とあるは当社のことなり。

丸山 (高さ二丁ばかり。山上に稲荷社を建つ。同寺持ち。)

祠堂山 (村民持ちの林なり。上ること一丁ばかり。)

戸田川
村の巽にかかる。幅三間より五間に至る。これも丈方川の水元なり。(西嶋村に弁ぜり。)
ここに土橋を架す。

聖天社三宇 (一は鎮守にて蓮性寺持ち。二宇は村持ち。)

稲荷社二宇 (一は昌福寺持ち。一は村民持ち。)

雷電社二宇 (ともに村民持ち。)

八幡社 (霊符神を合殿とす。村民持ち。)

諏訪社 (村民持ち。)

弁天社 (蓮性寺持ち。)

一乗寺
時宗、相模国藤沢宿清浄光寺末、泰国山人見院と号す。本尊は阿弥陀なり。
人見四郎泰国の開基にて山号も院号もしか唱えり。
開山は宗祖の一遍上人なり。正応二年八月二十三日示寂。

鐘楼 享保十三年九月鋳造の鐘なり。

人見四郎墓
本堂の東方にあり。碑面「人見四郎基堅入道音阿墓、正慶二壬申年二月二日、寛政四年壬子年二月修補。人見四郎男人見甚四郎小野思義」と彫る。按に、壬申は癸酉に作るべし。修補のときの誤りならん。また按に、太平記「人見四郎光行入道恩阿正慶二年二月二日本間九郎資貞とともに先駆けして赤坂城に戦死す」と見えたれば、碑面記すところの実名と異なり、基堅光行もとより別人なりしを、たまたま「恩」「音」同じ称呼ゆえに、正慶二年云々を付会せしにや。また傍らに人見治部大輔天正十八年庚寅の碑あり。これも寛政年中建てしものなり。この余古碑欠損数多あるを見れば、人見氏古墳の地なるゆえ彼の碑を再造せしことにて、歴代この地に在住し上杉氏に奉公せしものなるべし。

昌福寺
禅宗曹洞派、上野国永源寺末、人見山と号す。寺領二十石の御朱印は慶安元年七月十二日賜えり。本尊釈迦を安ず。開山漱恕全芳禅師永正十五年十二月十二日寂す。開基は上杉右馬助房憲。なにがしの年十一月五日とのみ伝えて、卒年詳らかならず。法諡を昌福寺殿的翁静端居士と号す。こは上杉民部大輔憲顕六男深谷の祖憲英より四代なり。またこれより五代の後、上杉三郎氏憲が寺領寄付の状あり。左に載す。

寄進状 武州榛沢郡人見村昌福禅寺 上椙牌處富士山寺門前、一切不入 ならびに寺領百貫文代々寄附畢る
            天正庚辰乗林鐘廿八日 上杉三郎氏兼(花押)
                      昌福寺

寺宝
短刀一腰 吉光と銘あり。上杉右馬助房憲所持と伝う。
上杉家譜一 松平大炊頭の家臣杉本某の祖蔵人なるもの何の頃か当寺へ付せしという。この杉本は上杉の末裔なり。

惣門 二王門 (楼上に千手観音を安ず。)

鐘楼 (寛文七年の鋳造なり。) 衆寮 弁天社 天神社 白山社

天王院
昌福寺末、諏訪山と号す。本尊釈迦を置けり。開山は本寺八世萬室達和尚、慶長九年八月三日示寂。
諏訪社 

蓮性寺
新義真言宗。針ヶ谷村弘光寺末、医王山と号す。本尊は薬師なり。開山僧玉蓮、寛永三年起立せり。
天神社 

大光寺
これも弘光寺末、十王山地蔵院と号す。本尊地藏を置く。
十王堂

地蔵堂 (村民持ち) 

薬師堂二宇 (一は蓮性寺、一は村民持ち)

陣屋跡
村の中ほどに二町四方の地にて、回りに堀の跡存せり。人見氏住居の跡という。今は陸田および村民の居住となれり。



持添新田〈もちぞえしんでん〉: 新開地に開墾したが農民は本村から通いで来る耕地。

江戸の行程: 深谷宿と同じとしているので、江戸から十九里。

采邑〈さいゆう〉: 領地、知行所のこと。

家譜〈かふ〉: その家の系譜、系図。

平高時: 北条高時のこと。平氏を称した。

寓居: 一時的に身を寄せること。仮住まい。

鎌倉大草紙: 室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。康暦2年(天授6年/1380年)より文明11年(1479年)。

康正〈こうしょう〉: 1455年から1457年まで

上杉武蔵入道性順: 上杉憲信〈のりのぶ〉。生没年不詳。庁鼻和〈こばなわ〉上杉家の3代目。庁鼻和城(深谷市国済寺にあった)を本拠とした。

息男: むすこ。

右馬允房顕: 山内上杉家に房顕がいるが、ここは房憲のことだろう。

上杉右馬助房憲〈ふさのり〉: 生没年不詳。庁鼻和・深谷上杉家の4代目。古河公方成氏に備えて深谷城に移った。ここから深谷上杉と称した。昌福寺を建立した。

打ち出し: 進出して。

城を取り立て: 城を構築して。

成氏公鳥山高山: 足利成氏〈しげうじ〉公およびその家臣鳥山右京亮〈うきょうのすけ〉、高山因幡守。

ここ岡部原で、康正二年(1465年)古河公方足利成氏と上杉憲信・房憲が戦った。
上杉方の五十子〈いかっこ〉城と深谷城の中間地点である岡部原に古河公方軍が利根川を渡り攻めて来た。
  『鎌倉大草紙』には、「十月(九月)十七日、鳥山右京亮、高山因幡守を先懸にて二百余騎の勢を指遺す。上杉方岡部原へ出合火出るほどに 戦ひける。上杉方には井草左衛門尉、久下、秋本を始として残りすくなに討たれ悉く敗軍す。成氏の味方も勝軍にはしたりけれども、一方の大将鳥 山深手を負て死ければ本陣へ引かへす。」とあり、上杉軍は敗れたが、一方の古河公方軍にも損害が出た。

上野台〈うわのだい〉
樫合〈かしあい〉

御入国: 徳川家康の関東移封。(天正18年/1590年)

昌福寺持ち: 昌福寺が別当寺として管理している。

村の巽: 〈たつみ〉南東の方角。

丁: 町。6尺を1間とする60間。
間: 1尺=0.30303m。6尺を1間とする。

西嶋村に弁ぜり: 戸田川のことは西嶋村の項で述べているという。

三宇: 3つの建物。

霊符神〈れいふしん〉: 妙見〈みょうけん〉信仰。もと道教における北極星・北斗七星に対する信仰である。北辰・北斗を神格化したのが「鎮宅霊符神」〈ちんたくれいふしん〉で、それが仏教に入って「北辰妙見菩薩」と変じた。鎮宅霊符の「霊符」とは一種の護符で、ご利益の種類に応じて多くの霊符があるという。

合殿〈あいどの、あいでん〉: 神社の主祭神に対して、1柱またはそれ以上の神を合祀すること。

しか: 如くは。山号も院号も「泰国」であると言っている。

正応〈しょうおう〉: 1288年から1292年まで。
示寂〈じじゃく〉: 高僧などが死ぬこと。寂(悟りの境地)を示したという意味。

享保〈きょうほう〉: 1716年から1735年まで。

基堅・音阿: 人見四郎の別名か?誤記か?
正慶二壬申年二月二日: 人見四郎の死亡日の記述。しかし壬申は誤記か。

正慶〈しょうきょう〉: 北朝が使用。1332年から1333年5月25日まで。

寛政〈かんせい〉: 1789年から1801年まで

人見四郎男: 人見四郎のむすこ。子孫。

小野思義〈かねよし〉: 寛政重修諸家譜の人見氏に名がある。この碑面では小野姓を称している。

按に: 考えるに。

壬申〈みずのえさる、じんしん〉: 干支の一つ。
癸酉〈みずのととり、きゆう〉: 干支の一つ。
正慶二年は癸酉が正しいと言っている。

付会〈ふかい〉: こじつけること。無理に関係づけること。
太平記に伝えられている名前と碑面の名前が違うので別人ではないかと言っている。

治部大輔〈じぶのたいふ・だゆう〉: 律令制の官位。

天正〈てんしょう〉: 1573年から1592年まで。
天正十八年: 1590年。庚寅〈かのえとら、こういん〉。

「この他に欠損ある古碑が多数あることを見ると、人見氏の墓所のある地なので、それらの古碑を再造したのであって、歴代この地に在住して上杉氏に仕えたのであろう。」という記述。

慶安〈けいあん〉: 1648年から1651年まで。
永正〈えいしょう〉: 1504年から1520年まで。

卒年〈そつねん〉: 死亡した年。没年。
法諡〈ほうし〉: 諡号〈しごう〉。おくりな。

上杉民部大輔憲顕〈のりあき〉: 山内上杉家の4代目。憲英の父。
上杉憲英〈のりひで〉: 庁鼻和上杉家の初代。
上杉三郎氏憲〈うじのり〉: ?-1637。庁鼻和・深谷上杉家の8代目。五郎という書も。小田原降伏の後は「小久保」と改姓。

上椙: 上杉。
牌處〈ひしょ〉: 位牌のある所。菩提寺。

一切不入〈いっさいふにゅう〉: 「不入の権」とは、中世荘園などが外部権力の権力行使を拒否することができるとされた権利のことである。「不入権」には、外部権力の使者の立 ち入りを拒否することができる「不入権」のほか、警察権・司法権の行使を拒否することができる「検断不入権」、租税を拒否することができる「不輸権」など があった。
つまり、上杉三郎文書は不入権と領地を寄進している。

畢る: おわる。完了形。
庚辰〈かのえたつ、こうしん〉: 干支の一つ。
天正八年: 1580年。庚辰。
乗?
林鐘〈りんしょう〉: 陰暦6月の異称。

上杉三郎氏兼: 上杉三郎氏憲の誤記と思われる。

松平大炊頭〈おおいのかみ〉: 長沢松平家が深谷1万石を領したことがある(1590-1602)。初代は松平康直。大炊頭が誰かは不明。

惣門: 総門。
二王門: 仁王門。

寛文〈かんぶん〉: 1661年から1673年まで。

衆寮: 禅寺で,座禅をする僧堂に対し,衆僧が自習に使うための建物。

慶長〈けいちょう〉: 1596年から1615年まで。
寛永〈かんえい〉: 1624年から1645年まで。

十王: 死後、人間を初めとするすべての衆生を裁く十人の裁判官のこと。

陸田〈りくでん〉: はたけ。または特に粟・麦・豆などの雑穀耕作を行なった土地をいう。

陣屋跡: 人見館跡。

(『新編武蔵風土記稿』で深谷上杉家について記述の乱れがあるので、あらためて列記する。)

上杉民部大輔憲顕 1306-1368 (山内上杉4代) 〈みんぶのたゆう、のりあき〉 六男が憲英。 
上杉憲英 ?-1404 (深谷上杉初代) 〈のりふさ〉 奥州管領。庁鼻和城を築く。庁鼻和〈こばなわ〉上杉を名乗る。 
上杉兵部大輔憲光 ?-1416 (深谷上杉2代) 〈のりみつ〉 憲英の長男。奥州管領。禅秀の乱で鎌倉公方方、戦死。
上杉憲信 武蔵入道性順 ?-? (深谷上杉3代) 〈のりのぶ〉 憲光の子? 憲英の子? 村岡河原の合戦、岡部原の合戦で奮戦した。 
上杉右馬助房憲 ?-? (深谷上杉4代) 〈うまのすけ、ふさのり〉 深谷城を築く。深谷上杉を名乗る。昌福寺を建立。
上杉三郎氏憲 ?-1637 (深谷上杉8代) 〈うじのり〉 五郎とする書も。小田原北条氏降伏の後は「小久保」と改姓。
上杉三郎 ? 氏憲のことか
上杉三郎氏兼 ? 氏憲の誤記か
上杉右馬允房顕 ? 右馬助房憲の誤記か
上杉房顕 1435-1466 (山内上杉10代) 〈ふさあき〉 関東管領。
上杉氏憲禅秀 ?-1417 (犬懸上杉4代) 〈うじのり〉 上杉禅秀の乱を起こす。深谷上杉8代の氏憲とは別人。
 
東京都府中市における「人見」

浅間山は古くは人見山と呼ばれていた。
(『新編武蔵風土記稿』および『武蔵名勝図会』にそう書いてある。)

浅間山の南麓は人見村といった。(現在は府中市若松町。)
浅間山(東京都府中市)のふもとに人見稲荷神社が鎮座している。

浅間山の前山に「人見四郎の墓跡」と伝承される場所がある。

小人見塚
府中八幡宿。八幡宮の甲州街道向かい北東方にあったという。廻りおよそ百歩ばかり、高さ六尺ほど。

深谷から鎌倉へ鎌倉街道上道〈かみつみち〉を進めば、武蔵府中はその途中にある。






人見山: 『新編武蔵風土記稿』および『武蔵名勝図会』に「人見村」「人見山」という名称が出てくる。

人見村〈ひとみむら〉
人見稲荷神社: ただしこれは、かつての人見村に鎮座することからの名称であると思われる。

「人見四郎の墓跡」: 真偽はともかく、人見四郎の名が登場する。

小人見塚: 人見山(人見塚)との対比で名称が付いたと思われるので、「人見」と直接の関連はないと思われる。

鎌倉街道上道〈かみつみち〉: 「鎌倉街道」は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については、鎌倉往還〈かまくらおうかん〉や鎌倉道〈かまくらみち〉とも呼ばれる。
『東鑑』に「鎌倉街道上道」という名称は見られない。
鎌倉街道古道の3主要路を「上道・中道・下道」と呼ぶ由来は、はっきりしないが奈良盆地の古代道になぞらえたともいう。
現在、鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、『東鑑』にいう「下道」にあたる。
鎌倉街道上道の経路としては、様々に推定されているが、およそ「鎌倉−瀬谷−町田−関戸−府中−恋ヶ窪−所沢−入間川−女影−笛吹峠−大蔵−奈良梨−塚田−花園−児玉−藤岡…碓氷峠へ…」と続く。
深谷あたりへは塚田から分岐があったようである。

新編武蔵風土記稿. 巻之89 多磨郡之1


人見山

府中領人見村にあり。村の西寄にて三ヶ所に屹立し堂山中山浅間山と唱う。其浅間山を第一として、其二は堂山、其三は中山なり。浅間山の高さ廿間許、堂山は十四五間程、中山は十間許。其形丸くして山上は平坦なり。第一は五六間許、其次は四間四方程、其次は二間四方許なり。西の方は陸田にて地より築揚たるが如く東向なり。堂山中山は東の方へ一段低く三方へなだれたり。周廻凡ニ町許、此内中山は分界をとれり。浅間山は東北の間へ一段低きなだれ山あり。周廻凡そ四町歩許なり。茲に奇異なることあり、此四辺は悉く黒野土なれども、山の土性は真土なり。是をもて考るに、全く築き立たる山に似たり。此所より玉川へ廿五六丁、府中まで十八丁、北の方狭山をさること三里許、江戸へは六里許、西の方へ五里余の間平原にして、中に此土山あること一奇なり。扨此山に付て一説あり、上古当国造の堂域なるべしとも云えど、未だ真をしらざれば茲に記せず。


陸田〈りくでん〉: はたけ。または特に粟・麦・豆などの雑穀耕作を行なった土地をいう。

なだれ: 傾れ。尾根つづきになるのではなく、麓に向かって低くなっていく状態であること。

分界をとれり: 『武蔵名勝図絵』では「分界劣れり」としている。

上古: 歴史時代の前期(およそ古代と中世)を上古・中古・近古に三分した最初である。歴史時代の最初であり、文献記録をたどれる最初の時代である。古墳時代・飛鳥時代。

国造〈くにのみやつこ・こくぞう〉: 古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

堂域: 墓所の意味。

『新編武蔵風土記稿』 巻之93 多磨郡之 5 から


人見村(附持添新田)

古文書に …此等の文に据れば、観応の頃は 原野にして此地戦場たりしこと知べし。

小名
・堂山 村北の丘岡なり。凡登り一町余。土人是を人見山と云。平地に突出して塚の如し。故に或は人見塚とも云。村内観音堂の旧地なる故かく堂山と呼べりとぞ。
・中山 堂山より西の丘岡を云。この地に澗泉あり。浅間出現の清水といふ。
・前山 中山の西にあり。
・上屋敷 村西の叢林を云。又村東に下屋敷と呼所あり。昔何人の館迹と云ことを知らず。上屋敷辺に高七八尺許の塚あり。此外にも猶村内四塚あり。大さ大低相似たり。共に何の塚なることを伝えず。


観応〈かんのう〉: 北朝で使用。1350年から1352年9月まで。

古文書に、観応の頃人見原で合戦があったことを根拠に、この辺りは原野であったとしている。

人見原の合戦: 南北朝時代の観応の擾乱にともなう武蔵野合戦(1352年(正平7年/観応3年=文和元年)閏2月から3月)のうちの一つの合戦。
新田義興ら南朝勢と足利尊氏は観応3年(1352年)閏2月20日金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて合戦を行った。双方とも相当の損害を出したと言われる。

人見氏の存在につい てまったく言及されない。

『武蔵名勝図会』 多磨郡之部 巻4 から


人見村

府中駅より十八町を隔て、東の方に当る。この村は往古武蔵七党の内より出たる人見氏の住居せし地なり。人見氏は猪俣党にして、その初めは横山党より出たり。岡部などと党を同じくす。村内に上屋敷、下屋敷などいう地あり。上屋敷というは村の西にあり。下屋敷というは村の東にあり。何人の住したることも知れずといえども、正慶の頃は人見氏の住せしなるべし。

系図云

横山時資は武蔵権介義孝の舎弟なり。(この義孝という人始めて多磨郡横山庄に住す。) 人見四郎入道は正慶ニ年二月二日本間九郎資貞と同じく先発して、赤坂の城にて討死すること太平記に見えたり。

(系図は上に挙げたとおり)

上屋敷

 村の小名とす。ここは古え人見氏の住せしなるべし。古塚一ヶ所あり。この外にも古塚四ヶ所いまは百姓屋敷地にあり。高さ八、九尺、その謂われ不知。

人見山

村の西寄りにあり。三ヶ所屹立し、堂山、中山、浅間山と唱う。その内にて浅間山を第一とす。そのニは堂山、その三は中山なり。浅間山の高さ廿間許。堂山十四、五間、中山十間許なり。その形丸くして、山上はて平坦なり。第一は五、六間四方、その次は四間四方、その次はニ間四方程なり。西の方は陸田にして、地より築き上げたるが如く、堂山、中山は東の方へ一段低くなだれたり。周廻凡そニ町歩程。この内、中山は分界劣れり。浅間山は東北の間へ一段低きなだれ山なり。周囲凡そ四町歩程。










府中駅: 甲州街道(甲州道中)の府中宿のこと。

武蔵七党: 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。

正慶〈しょうきょう〉: 元号の一つで北朝方で使用された。1332年から1333年5月25日までの期間。鎌倉幕府の滅亡など。
南朝方で使用された元弘〈げんこう〉の時期にあたる。

ここで系図を引いてきているが、これは人見氏の資料であって、人見村の資料ではないことに注意したい。

『武蔵名勝図会』の系図では人見政経に「初て人見村に住す」と注記している。しかし、政経は本拠地榛沢郡人見に住んだ初代であり、多摩郡人見村住というのは早過ぎないか? あるいは榛沢郡人見との混同か?

なだれ: 傾れ。尾根つづきになるのではなく、麓に向かって低くなっていく状態であること。
『武蔵名勝図絵』 多磨郡之部 巻4 府中領 国分寺伽藍跡の項から


(小野郷の東部にある丘陵とは、現在の東京都府中市の浅間山のことである。浅間山の古名は「人見山」であるが、この霊験話は、神将の化身が山上に立って見守ったことが「人見山」と呼ばれるようになった理由であると伝えている。)


平家物語に出る人見四郎(A)

平家物語 越中前司最期
一ノ谷合戦において、義経別働隊・多田行綱勢の鵯越急襲により麓を守る平家方の山ノ手陣は敗走し、越中前司平盛俊は敵に囲まれ逃げ切れぬと思ったのか、ただ一騎踏みとどまって戦っていた。
盛俊が一度は組み伏せた源氏方の猪俣小平六則綱の命乞いを聞き入れて、田の畦に腰を掛けて息を整えていたところ、武者が一騎馳せ寄って来た。それが人見四郎であった。
盛俊が四郎の方に気をとられている隙をみて、則綱は盛俊を押し倒して馬乗りになり首を取った。
則綱は名乗りを上げたものの、四郎に脅されて首を横取りされてしまう。が、こっそり切り取っておいた盛俊の耳を証拠に手柄を取り戻した。


これは人見六郎政経の子孫・人見四郎忠衡である。

一ノ谷の戦い〈いちのたにのたたかい〉: 平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。平氏の一ノ谷陣の後山である鵯越から源氏勢が逆落としに下って攻撃をしかけたというエピソードが伝承される。

平盛俊塚: 神戸市長田区名倉町2−2

太平記に出る人見四郎(B)


太平記 赤坂合戦事付人見本間抜懸事
人見四郎入道恩阿は本間九郎資貞とともに、楠木正成が守る赤坂城に対して抜駆けして討取られた。付き従っていた聖〈ひじり〉が、二人の首を乞得て、天王寺に持って帰った。
上宮太子堂の石鳥居の左柱に人見四郎が書付けた歌「花咲かぬ老木の桜朽ぬとも其名は苔の下に隠れじ」が見いだされた。


太平記に出る人見四郎入道恩阿の記事である。

元弘の乱〈げんこう〉: 1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。楠木正成の赤坂城・千早城の戦いなどのエピソードあり。
その他の人見四郎入道恩阿に関する資料

【人見恩阿    ひとみ-おんあ】 (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
1261−1333 鎌倉時代の武将。
弘長(こうちょう)元年生まれ。人見氏は武蔵(むさし)七党のひとつ猪俣(いのまた)党の支族。北条高時につかえ,元弘(げんこう)の乱で楠木正成(くすのき-まさしげ)の赤坂城を攻め,正慶(しょうきょう)2=元弘3年2月2日戦死。73歳。武蔵榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)出身。名は光行,基堅(もとかた)。通称は四郎。
【格言など】花咲かぬ老木桜朽ちぬともその名は苔(こけ)の下に隠れじ(辞世)

【八王子市子安神社の解説から】
八王子市明神町にある子安神社の祭神は木花咲耶姫命である。
人見四郎入道光行が寄進した神櫃があったという。(現存はしていない。)
「子安神社蔵旧台帳」に神櫃銘文が写されていて「武州多西郡子安大明神/元徳二年七月再造御移奉也/同国多東郡住人人見四郎入道光行寄進」とあるという。

【子安神社 こやすじんじゃ】 (Web八王子事典) から
祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。759年(天平宝字3)橘右京少輔が勅命によ1330年(元徳2)人見四郎入道光行が再建。八幡太郎義家が戦勝祈願のため槍18本を寄進したとも伝えられる。江戸時代には御朱印6石を拝領、古くは船森明神、子安明神と称され、安産、子育の神として知られている。相殿に素盞嗚尊、天照大神、大山昨神、奇稲田姫命を奉斎。末社に金比羅神社、敷島神社、稲荷神社、石(いし)神社がある。1553年(天文22)銘の十一面観音懸仏。







弘長元年〈こうちょう〉: 1261年。

子安神社: 東京都八王子市明神町4−10−3 昔この神社とその周辺は、船森と呼ばれた森と湧水池で名高かった。

神櫃〈しんひつ〉: 櫃は、ふたが上に開く大形の箱のことであるが。神櫃とは、仏教での仏壇にあたるものか?

多西郡・多東郡: 文献史料において、12世紀半ば以降、多摩郡が東西に分けられて多東郡、多西郡と表記されていた例が多く見つかっている。

元徳二年〈げんとく〉: 1330年。

多東郡住人: 人見四郎はこの時期に多東郡を住所としていたのか? としたら、それはどこか?

記述が「勅命によ」で切れている。「勅命により創建。」などの記述と思われる。
各地における「人見」という地名

深谷市、府中市の他にも全国各地に「人見」という地名は存在している。
「人見山」などのように山と結びついた地名を探してみた。(他にもまだまだあるだろう。)

・群馬県安中市松井田町 人見城
・千葉県君津市 人見山
・大分県玖珠町 人見岳
・宮崎県延岡市大貫町人見山地区
・福岡県田川郡福智町の金田・神崎祇園山笠の「人見山笠」(人見という地区がある。)
・埼玉県小川町 仙元山
・京都市嵯峨野 人見の岡

このうち安中市人見城は、新ふる里づくり実行委員会による説明板に「ここには南北朝期に足利方に従っていた人見四郎恩和の館があったと言われている。」とある。





人見〈ひとみ〉: 眺望のある山などが見張り(人見)をする場所とされたために地名化したもの。 そして中世武士などは地名を姓とすることが習いであったため、各地に「人見氏」が発生した可能性がある。

『枕草子』の「岡は」に「人見の岡」あり。

『住吉物語』上の少将と姫君の歌のやりとりに、
「手もふれで 今日は余所にて 帰りなむ 人見の岡の まつのつらさよ」
という歌がある。
人見の岡は嵯峨野の地名と推測される。
「人を見守って立つ」「人を待ち見やる」という、平安時代の「人見」の語感が思われる。


安中市の説明板は、「南北朝期」「足利方」「恩和」などという記述が適切でない印象を受ける。

考察

人見氏の本拠は武蔵国榛沢郡人見(現・埼玉県深谷市)である。

各地に「人見」という地名が存在する。これは孤立丘などがあり眺望がきき、周囲を監視(人見)するのに適した場所についた称のようである。
したがって「人見」という地名があるからといって人見氏が領していたとは言えない。

『新編武蔵風土記稿』が、人見原合戦場になったことを理由に観応のころは人見村辺は原野だったと断ずるのはいきすぎではないか?

結局『新編武蔵風土記稿』多磨郡の部分では人見氏の存在についてまったく言及されない。

『武蔵名勝図会』はいきなり人見村はかつて人見氏が住んでいた所と断じている。
正慶頃は住んでいただろうとも断定している。正慶頃は人見四郎が討死し、鎌倉幕府が滅亡したころである。つまり何時からかは分からなくても、人見氏が衰退する前までには人見村に関連していたはずと考えるので「正慶」なのであろう。
上屋敷・下屋敷についても人見氏が住んだに違いないとしている。

このように『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』では、人見村への人見氏の関与についてまったく主張が異なるのである。

人見四郎光行(恩阿)は実在ということはいいだろう。
彼についての伝承は各地にひろく存在するようだ。それは彼個人が実際に活躍したのか、広範な人見氏の活動が彼個人に集約されて伝わったのか、それとも太平記に出て有名な彼の名にあやかった伝承なのか、いま見ることのできる資料だけでは判断できない。

真偽はともかく、八王子子安神社に残された文書で人見四郎が「多東郡住人」となっていることは興味深い。
平時において、人見氏が鎌倉幕府の御家人としてどのような役割を担っていたのか? どの地域を活動範囲としていたのか?

多摩郡の人見山・人見村と人見四郎光行(恩阿)の関連は、史料上は薄弱と言わざるを得ない。
人見という地名と人見氏が結びつけられ伝承が発生する傾向が多くみられるということは、この例でも留意すべきだろう。

以上のことから、あらためて、府中市教育委員会はいかなる形の伝承に基づいて「人見四郎の墓跡」碑を建立したのか、という関心が深まる。

浅間山の尾根に立つとき、その眺望に様々な感慨は湧くのであるが、中世ロマンを夢みることはまた別の機会としたい。


太平記に出てくる人見四郎の物語はどんなものか?
→太平記に出てくる人見四郎入道恩阿



↑TOP

おすすめ本

この小説の主人公「人見四郎」は人見四郎恩阿でもない架空の人物です。しかし、人見山を含む郷土への想いをよく表現していると思います。

『武蔵野燃ゆ―南北朝最後の大合戦』
藤田道夫著
文芸社(2000年4月発行)
ISBN-13: 978-4887378841
http://www.amazon.co.jp/dp/488737884X


歴史indexへ戻る←   ↑TOP