歴史index | 武蔵武士 | 人見氏 | 2024.08.29 | |
人見氏の実像は? (フィクションとしての『太平記』と、史実としての『楠木合戦注文』) 冨田悦哉
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『太平記』に登場する「人見四郎」はフィクションである。 史実を反映していると思われる『楠木合戦注文』に記された「人見六郎」が実像なら、これまでの「人見四郎」中心の武蔵武士人見氏像はどうなる? |
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・武蔵武士 人見氏 ・『太平記』に出てくる「人見四郎」 ・『楠木合戦注文』に記された「人見六郎」 ・「楠木合戦注文」についての新編埼玉県史の解説 ・新編埼玉県史 資料編7に抄録の「楠木合戦注文」の一部 ・『楠木合戦注文』一部を訳してみた ・『楠木合戦注文』と『太平記』の関係 ・『太平記』の史実化 ・まとめ |
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これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。 資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。 引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。 |
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『武蔵武士』八代国治・渡辺世祐著 有峰書店新社 昭和46年(1971年)3月30日発行 Wikipedia「人見氏」 2024年8月時点 『太平記』西源院本を底本とする兵藤裕己校注 (岩波文庫 2014年4月6日発行) 『太平記』流布本 (国民文庫本 明治42年8月5日発行)荒山慶一氏入力の電子テキスト版 http://www.kikuchi2.com/sheet/thkm.html 『楠木合戦注文』新編埼玉県史 資料編7抄録 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9643490/1/298 |
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メモ
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武蔵武士 人見氏 『武蔵武士』の内容から
武蔵七党の一つ猪俣党の河勾(かわわ)政基の子・政経が武蔵国榛沢郡人見の地を領して人見六郎と称した。系図では同じ猪俣党の岡部清重も人見を名乗ったようである。
Wikipedia「人見氏」から
人見氏は武蔵国幡羅郡人見邑を発祥とする一族である。本姓は小野氏。家系は武蔵七党のひとつ猪俣党の支流とされる。猪俣五郎時範の四世、政経とその従弟清重を祖とするという。
人見氏の名字の地
名字の地は、武蔵国榛沢郡人見(現在の埼玉県深谷市)である。
人見氏の遺跡
埼玉県深谷市には、「人見」の名の元となった仙元山(人見山)、埼玉県指定史跡「人見館跡」、および館跡の南約500メートルにある一乗寺には、「人見氏累代の墓」がある。
※このほか人見氏についての収集資料は 人見四郎(東京都府中市浅間山に墓跡が伝承される)についてのメモ を参照。 |
武蔵七党: 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。 猪俣党〈いのまたとう〉: 武蔵七党の横山党と同じく小野篁の末裔を称する。 人見氏: 武蔵七党のひとつ猪俣党の支流で、武蔵国榛沢郡人見を本拠地とし、人見六郎政経が地名の「人見」を名字としたことに始まる。 榛沢〈はんざわ〉郡: 現在の埼玉県深谷市の大部分と寄居町など。深谷市中心街や人見を含む。 幡羅〈はら〉郡: 現在の埼玉県熊谷市と深谷市の一部。 榛沢郡と幡羅郡は隣接している。(ちなみに総領猪俣氏・河勾氏の本拠は児玉郡・幡羅郡。) 埼玉県内で人見といえば、現深谷市の人見である。もと人見村>合併して藤沢村(榛沢郡)>合併して大里郡>合併して深谷市。なので人見村は榛沢郡である。 中世において幡羅郡の勢力が卓越していたとすると、人見村を幡羅郡にみなす考えもあったのか? 人見館跡: 遺構は人見氏居住のままではなく、後世に上杉氏が居館としたものの跡。 人見氏累代の墓: 古い墓石はいつ建立か不明である。刻銘のあるものは、江戸時代に人見恩義が建てたもの。一乗寺についても、人見氏の時代から途切れなく存立しているかどうかは不明である。 |
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『太平記』に出てくる「人見四郎」太平記 第六巻 9 赤坂合戦の事ならびに人見本間討死の事 『太平記』の「人見四郎」は、浄土信仰に支えられつつ自ら老残を処し、鎌倉幕府とともに滅んでいった武蔵武士というイメージで描かれている。
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元弘の乱〈げんこう〉: 1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。楠木正成の赤坂城・千早城の戦いなどのエピソードあり。 赤坂合戦:元弘乱の当初に楠木正成が立てこもって一度落城したのは北麓の出城「下赤坂城」で、ここでいう赤坂城は「上赤坂城」(別名楠木城)として史跡になっているものを指すと思われる。大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪。標高350m。比高150mほど。周辺の金剛山の尾根尾根には猫路山城・国見山城・枡形城・千早城等が築かれており、楠木の城塞群を形成していた。 人見四郎: 太平記において討死する場面で「年積もつて七十三」とあることから、生年も逆算されているが、実在した人物かどうかは証拠が不足している。 太平記のエピソードは、一族の長が抜け駆けのため単騎で行動するという非現実的な設定になっており、文学的フィクションであることが濃厚。 各地に散見される「人見四郎の遺跡」や家譜に記載される「人見四郎」は、むしろ太平記を実史と受けて引用したものと思われ、実在の根拠とするには危うい。 府中市浅間山には「人見四郎の墓跡」の石碑が建っているが、これは「墓跡という伝承がある場所」に府中市教育委員会が建てたものだが、人見四郎に関する証拠は何ら持ちあわせていない。 八王子市子安神社の「子安神社蔵旧台帳」に現存しない神櫃の銘文が写されていて「武州多西郡子安大明神/元徳二年七月再造御移奉也/同国多東郡住人人見四郎入道光行寄進」とあるというが、あくまで由来不明の「写」であり、証拠とするには不足である。 人見四郎を実在とするには、今後「太平記成立より前」の史料が発見される必要があるだろう。 |
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『楠木合戦注文』に記された「人見六郎」『楠木合戦注文』は『正慶乱離志』という文書に収録されている。『楠木合戦注文』についての新編埼玉県史の解説 『正 慶乱離志』ともいう。巻首端裏には「楠木合戦注文正慶二年分」とある。筆者は東福寺僧良寛。嘉暦四年(一三二九)七月三日付の良寛の署名·花解説押のある東福寺領肥前国彼杵荘重書目録の裏に書かれている。前半を『楠木合戦注文』、後半を『博多日記』とよぶ。正慶二年(一三三三)、畿内で鎌倉幕府に反乱を起こした楠木正成と、幕府軍との合戦の動向や幕府軍の構成が詳しく記されている。本編にはこの中から武蔵武士の属した河内道紀伊手や大和道の軍勢、正月·二月の合戦の部分を抄録。底本は尊経閣叢刊(コロタイプ複製)に拠った。新編埼玉県史 資料編7に抄録の『楠木合戦注文』の一部 https://dl.ndl.go.jp/pid/9643490/1/298 一、二月廿二日、大将軍阿蘇遠江左近大夫将監殿・長野四郎左衛門尉、既楠木之城被寄之由披露之間、本間一族・須山人々・猪俣懸大将軍前、押寄楠木本城、及散々合戦、就中本間又太郎・同舎弟与三、為先陣一二三之木戸ヲ打破テ、四ノ木戸口近押寄、既及太刀打之処、又太郎者弓手之肩ヲ被射、与三者タカモゝヲ被射通引退畢、其後本間九郎父子打死、同一族河口与一、同兵衛四郎、都合四人打死、一門計七十余人手負、若党下部共百余人被打畢、『楠木合戦注文』一部を訳してみた 一、2月22日、大将軍阿蘇治時と奉行長崎高貞は、(軍勢を)楠木の城(赤坂城など)へ攻め寄らせ、その報告を受けようというところであったが、本間・須山・猪俣らは大将軍到着前に(先駆けの功を狙って)楠木本城(赤坂城)に攻め掛け、激しく戦闘した。そのなかでも、本間又太郎・同舎弟与三は先陣をなし、一二三の木戸を打ち破って四の木戸口ちかくまで攻め込み、太刀打ちの戦闘に及んだが、又太郎は左の肩を射られ、与三は高腿を射貫かれ、引き退いた。その後、本間九郎父子が討死、同一族の河口与一、同兵衛四郎の4人が討死した。一門では計70余人が負傷した。若党下部ども100余人が討たれた。 |
注文〈ちゅうもん〉: 日本の古文書の一種で、人名や物品の種類・数量を一つ書き形式で記したもの。ここに扱われているのは「合戦手負注文」という種類のものである。おもに戦闘による損害を申告し、それに見合った恩賞・報酬を要求する根拠とした。そのため(数に多少誇張はあるかもしれないが)、戦闘から比較的近日うちに記述され、戦死者負傷者名については事実に基づくと考えられる。 『正慶乱離志』: 閲覧できるのは筆写本のみで、原本は確認できない。 筆写本も毛筆で字体が崩してあるので、不明文字がある。 まず太平記の「人見四郎」に該当すると思われる人名は「人見六郎入道」となっている。 そして一緒に討死した者の名前が「同甥孫二郎入道」となっているのであるが、毛筆字は「孫」か「総」か判然としない。(筆写者が「孫」を意識して筆写すれば「孫」のような字体になり、「総」を意識して筆写すれば「総」のような字体になっているのである。) 結局これら筆写本を基にした活字化引用本も、 「孫」「総」「捨」「槍」「核」などと表記する始末である。 さて、どうするか。 「楠木合戦注文」について丁寧な説明をしている「新編埼玉県史 資料編7」に敬意を表し、その掲載内容に従うことにする。 阿蘇〈あそ〉: 北条氏の分流。苗字は肥後国阿蘇社領地頭に由来する。 九州に土着し、北条得宗家による鎮西支配強化を担う。 元弘の乱で大将軍として出陣したのは、4代の阿蘇治時と思われる。 長野四郎左衛門尉: 長崎四郎左衛門尉高貞の誤記と思われる。長崎高貞は軍奉行として阿蘇治時を補佐。 猪俣〈いのまた〉: 猪俣党の一族として人見氏が出陣している。 下部: 〈しもべ〉? 下郎の誤記? 殿原〈とのばら〉: 戦闘員として数え上げられる者という意味か? 正員: 戦闘員として数え上げられる者という意味か? 於同所被打畢: 赤坂城の要害に追い込まれて、身動きできない状況で討ち取られたか? 正慶〈しょうきょう〉: 北朝方で使用された元号で、正慶2年は南朝方の元弘3年にあたる。 2月22日の戦闘状況が、翌月閏2月2日には「注文」として集約されていたことになる。 こ の注文は北条方のものであるが、こののち赤坂城を落城させた(勝った)ので、その時点での実績(はらった損害)を申告したものであろう。その後、北条方は元弘乱について敗者となるので、注文は無効になるのだが、東福寺良寛の下に文書は残された(裏紙として)。この注文のような軍政文書の集約に寺僧が書記・証人のような役割を担ったのだろうか。 楠木本城: 現在史跡「上赤坂城」となっているものを指すと思われる。 ただし『楠木合戦注文』には「赤坂城」という記述はない。 |
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『楠木合戦注文』と『太平記』の関係注文は戦後の恩賞報酬の根拠ともなる「申告書」であるから、そこに書かれた事実関係や人名は、信憑性が高いであろう。出来事から比較的近日うちに記述されていることも、創作が入り込む余地を少なくしていると思われる。(負傷者数については、かなり概算であり誇張も多いかもしれないが)『太平記』の史実化 フィクション物語として創作された『太平記』であるが、その後の流布普及が進むにつれ、また軍記として認められるにつれ、あたかも「史実」として扱われるようになっていった。 |
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まとめ武蔵武士の人見氏に関するおもな興味は次の3点でした。 2024年8月29日 冨田悦哉
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