歴史index 府中市 浅間山   2014.6.23
武蔵国分寺縁起にある人見山(浅間山)の由来
冨田悦哉
『武蔵名勝図絵』を読んでいたら、人見山(浅間山)についての記述を見つけた。
『武蔵名勝図絵』 多磨郡之部 巻四 府中領 国分寺伽藍跡の項
 
  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。
  メモ

『武蔵名勝図絵』 多磨郡之部 巻四 府中領 国分寺伽藍跡の項から

「国分寺縁起略」云 (中略) 康平年中(1058〜65)源頼義朝臣奥州下向の砌、冬十一月当寺に来り給ひ、三ヶ日軍旅を留給ひて、薬師経並に金光明最勝王経、大般若経を誦せしめ給ひて奥州に赴く。其日より同郷の東の丘陵に、甲冑の武者一人常に北方に向ひ立る事毎日なり。郷人怪み近く寄て見るに、曾て見へず。其後此山を名付けて人見山とは号せり。今、人見村の内にあり。時に十二神将の内、珊底羅大将の神足泥土に染めるを見て、即ち神将の軍陣を加護し給ふ事を知りけり。果して頼義朝臣軍勝利を得給ひて凱旋の砌、当寺に御鎧、太刀等を納め給ふと云。(後略)

-----------------------------------------------------------------
「国分寺縁起略」にこのように記されている。(中略) 康平年中(1058〜65)に源頼義朝臣が奥州へ向かった際に、冬十一月に国分寺に来て、3日間その軍勢を留めて、薬師経ならびに金光明最勝王経、大般若経を読み唱えさせたのち奥州へ赴いた。その日より同郷の東の丘陵に、甲冑の武者が一人、常に北方に向かって立つことが毎日つづいた。郷人が怪しんで近くに寄って見ようとすると、武者の姿は見えなくなってしまう。その後この山を名付けて「人見山」と呼ぶようになった。今、その山は人見村の域内である。そのような時に十二神将のうち、珊底羅大将の足が泥土に染められているのが見つかり、神将が軍陣を加護していたのだということが分かった。願いのとおりに頼義朝臣の軍は勝利を得て、凱旋の際には国分寺に鎧、太刀等を納めたという。(後略)

-----------------------------------------------------------------
◆小野郷の東部にある丘陵とは、現在の東京都府中市の浅間山のことである。浅間山の古名は「人見山」であるが、この霊験話は、神将の化身が山上に立って見守ったことが「人見山」と呼ばれるようになった理由であると伝えている。

『武蔵名勝図絵』が引用している「縁起略」は江戸時代半ばに刊行された『医王山国分寺縁起』らしい。

国分寺:奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうちの、武蔵国の国分寺。現在の東京都国分寺市(府中市の北隣)にあった。中世の戦火で焼亡の後、新田義貞が後継寺院として医王山国分寺を建立。


源頼義:平安時代中期の武将。河内源氏2代目。源義家の父。陸奥守・鎮守府将軍として永承6年(1051)から《前九年の役》を戦うが、後に陸奥守への再任に失敗。

同郷:現府中市近辺は「小野郷」であった。

曾て見へず:(かつて見えず)全く見えなかった。

人見山:現在の東京都府中市浅間山の古名である。

珊底羅大将:(さんてぃらたいしょう)薬師如来を護衛する十二神将のうち第七願除病安楽と巳の方角を司り法螺貝を持つ。

考察

「縁起」は参詣人を呼ぶための江戸時代の刊行物であるので、内容をそのまま信じることはできない。しかし、ある程度の消息を読み取ることはできるのではないか。

鎌倉から奥州に向かう場合、府中市あたりを経由していった。その際、武蔵国分寺に宿営することもあった。(そのために後に国分寺は兵火によって焼亡することになる。)
昔の武将は神仏に祈願することが多かった。これは現代的な「お参り」程度の軽いものではなく、まさに命運を掛けて祈ったのである。

武蔵野の孤立丘である人見山(浅間山)は、古代から物見(見張り)をする山として知られていたのだろう。国衙の兵士や勢力を張った豪族が物見(人見)を置く拠点としていた歴史的記憶から、珊底羅大将化身の甲冑武者が立つ霊験話になったのではないか。
珊底羅大将は巳の方角(南東微南)を守っているので、国分寺から見て浅間山の方ということで「お前が行け」となった。どちらかというと辰(南東微北)なのだが、辰担当の額爾羅大将は何か他用があったのかもしれない。
頼義が戦勝祈願→仏が願いを聞き入れ加護する(見守る)→この辺で見守るならあの山(浅間山)
源頼義と浅間山が実際に関係があったのかまでは分からない。たぶん頼義にとっては府中市あたりは経由地にすぎなかったと思われ、頼義軍が浅間山に分屯するようなことはなかっただろう。
もちろん霊験話は事実ではないが、物見(人見)をする山→「人見山」の名が付く→その麓の村は「人見村」 という地名の由来をうかがい知ることができる。

つまり中世の「人見氏・人見四郎」に関係なく、それよりも前から浅間山は「人見山」だったという話なのである。ところが『武蔵名勝図絵』は人見村の項では、中世の武士人見氏が住んだから「人見」かのように記述している。内容が矛盾しているわけだが、このように土地の言い伝えのそれぞれを尊重して記載するのが『武蔵名勝図絵』著者植田孟縉の編纂方針であるから、それを承知で読み取らなくてはならない。

↑TOP

歴史indexへ戻る←   ↑TOP