歴史index 府中 浅間山   2014.4.23
浅間山(せんげんやま)の思い出 (東京都府中市浅間山)
冨田悦哉

 

子どもの頃の浅間山について書いてみたい。

今でこそ浅間山は都立公園として遊歩道も整備され、林も手入れされて明るくなっているが、私が子どもの頃は2つの意味で廃墟然としていた。
1つには、人の手入れがなされず放置された雑木林がジャングル化していたこと。もう1つは、太平洋戦争までの軍事施設の残骸が山中に点在していたことである。

私の一家は、私が小学校に入学する1967年(昭和42年)、中央区日本橋小網町から府中市浅間町に引っ越してきた。
私の父母は、古多摩川が武蔵野に削り残した孤立丘《浅間山》の北麓にささやかな土地を買い家を建てて、小網町の社宅から転居したのである。
府中市の小学校で新1年生になった私は、地元府中の級友たちから「どこから来たんだ」と聞かれ、「東京から来た」と答えた。級友たちは、なんだ妙なことを言う奴だなという顔で「ここは東京だぞ」と言ったが、私は級友たちが何を言っているのかその場では理解できなかった。
小網町の社宅は日本橋のビル街の中にあった。それに対して浅間山麓の新居は、ついこの前まで畑かススキ薮だったところを均して平屋のプレハブ住宅を建てたもので、現に新居の周囲はキャベツやネギの畑が広がり、家の隣はいまだにススキ薮であった。家の前から畑の向こうに夕日が沈むのが見え、小さく富士山も望まれた。
畑に撒く肥しのせいかハエが多かった。家の外に立て置いたプロパンガスのボンベの陰にアオダイショウが入り込んでいた。住み始めた畳の隙間からはいつまでもススキの新芽が突き出してきて、あいかわらず武蔵野原が存在を主張しているようであった。
そんな新居の前の砂利道の突き当りに、浅間山があった。

道の突き当りの浅間山は崖であった。今のように浅間山公園の入り口が迎えていたわけではない。
昔々の浅間山は近在農家の入会地で雑木林としての手入れもあっただろうが、旧日本軍の用地を経て、東京都の管理になってからは山の樹木は放置されて伸び放題で鬱蒼としていた。
武蔵野の雑木林という風景は、人の手が入って下草を刈り、雑木を適当に間引いて薪に利用したりして、はじめてカラリと開けるのである。当時の浅間山は樹木がそのままひしめいた荒れ山になっていた。
そのうえ浅間山の手前には、万年塀で囲われた空き地(「サイキ不動産」と呼んでいた)が張り付いていて、浅間山の中の様子は麓からでも窺い難くなっていた。
山の周辺には変質者が出没するという噂があって、学校からは、子どもだけで浅間山に入ってはいけないと達しが出ていた。

私の同級生にKnちゃんがいた。Knちゃんは小柄で色白、鼻筋の通った顔立ちに秀才が表れていた。実際にKnちゃんの博識はたいしたもので、私などが知らない科学雑誌を読み、彼の家の子ども部屋は「書斎」か「実験室」の雰囲気があった。同じ齢とはいっても、私よりずっとませていて、「末は博士」ということはもう予定しているような子どもだった。
Knちゃんは知識ばかりではなかった。カブスカウトのメンバーでもあり、野外活動にも旺盛に向かっていった。草花や虫・生き物の名前をよく覚えていて、小学生の遊びというより研究者のフィールドワークといった趣があった。
府中市に慣れない私はこのKnちゃんの後をくっついて歩いていたのだが、Knちゃんの行動圏はご禁制の浅間山だろうとお構いなしなのだった。

私たちは道の突き当りの崖をよじ登って浅間山へ入りこんだ。この崖は、今では崩れ均されて坂になり、浅間山公園の入り口の1つになっているが、当時は小学生が手を掛け足を掛けてよじ登らなければならないような土のカベであった。
山中は今のようなカラリと晴れた雑木林でなく、茂り放題の樹木が頭上を覆っているために下草は陰性の植物が目立った。キノコ類やユリの仲間、ホタルブクロなどである。カラスウリもあったか。日の当たるスペースには茎を折るとヨードチンキみたいな汁の出る大きな葉の植物(チャンパギクとかタケニグサというらしいが、当時私たちは何と呼んでいたか?)が繁茂。ヤマゴボウは紫の汁でブドウのようだが食べられない。イチゴ風だが口の中でバサバサするだけのヘビイチゴ。桑の木だけは実が食べられた。

中山に差しかかったところの《おみたらし》は今より水量があって、溜り水も深みがあった。季節にはオタマジャクシや水生昆虫もうじゃうじゃ見られた。
今に比べると、当時の山中では他の場所でも、いつもジメジメとした斜面が何か所かあったように思う。

堂山と中山の間のやや平坦な部分、今は公衆トイレがあるあたりには、昔の軍事施設の配電盤小屋があった。クモの巣とバラ線を潜り抜けて近づいてみてみると、窓が割れたメーターやらスイッチやらが埃をかぶったまま沢山並んだ機械の残骸が立っていた。ごつい切り替えスイッチをいたずらに動かしてみても、もう何の反応もなかった。しかしジャングルの中にこのような電器部品の遺物があることは、小学生の探検には十分魅力的な成果だったかもしれない。

現在、府中の森公園・美術館および航空自衛隊府中基地があるところは、旧日本陸軍の燃料廠が置かれていたのだが、隣接する浅間山も陸軍の用地に接収されていた。
中山と前山の間の広場を囲む斜面には、すり鉢状に掘られた高射砲陣地の跡があった。今は東屋がある広場の周辺で、前山の斜面に不自然なクレーター様の地形が残っているところである。さすがにもう砲そのものは残っていなかったが、砲座の土台コンクリートのがれきはあったと記憶している。
こんな小丘に拠って砲数門で米軍機の空襲に対抗しようとしたのだろうか。
他に何のためのものだったか分からないコンクリートの基台。
燃料の秘匿タンクも設けられていたが、その斜面のり面に積まれた石垣。

浅間山の各所には防空壕も掘られていた。米軍機の空襲に備えて掘ったものだったが、軍が組織的に掘ったものだったから、間口2m、深さ30mほどはあるものが数か所あったらしい。
私が小学生の当時でも、入口付近が穴の体裁を残している場所もあった。しかし崩れると怖いから中に入ったことはない。
たいていの防空壕は陥没して、山の斜面に筋状の地形を現していた。そのようなところに踏み込むと確かに足元が脆くめりこむような感覚があった。堂山の斜面に何か所か見られた。
空襲警報の度に燃料廠の要員は、浅間山の防空壕をめざして数百メートルを走らなければならなかったのか。

前山の尾根からは米軍基地が見渡せた。もとは日本陸軍の燃料廠だった敷地である。通信用の高い鉄塔が建っていた。(今も建っているが。)
この塔には作業用の鉄梯子が地上からてっぺんまで紐のように付けてあって、毎日夕方になると男が一人、何の為だか鉄梯子をよじ登っていった。夕日の中をぽつんと登っていく男のシルエットは頼りなさげであったが、黙々と手足を動かしているのが見て取れ、何だか不思議な光景であった。私たちはこいつを「ゴリラ男」と呼んでいた。
前山からは丹沢、富士山も望まれた。

前山の尾根に背の高いアカマツが1本あった。もとは浅間山に松の木は沢山あったらしいが、当時はそれ1本になっていたらしい。
knちゃんはこのアカマツがお気に入りだったらしく、浅間山を前山の側から描いた年賀状を送ってきたことがあった。舟を伏せたような前山の左端にアカマツが《ちょんまげ》のように飛び出した、ちょいとひょうきんな図の浅間山であった。
このアカマツもいつの間にか松くい虫の害にあって、伐られて無くなってしまった。

浅間山の東側、緩やかな部分は三井物産の総合運動場になっていた。(「三井グランド」と呼んでいた。)
運動場ができる前、小川が2本ばかり流れていたのだという話を聞いたことがある。どんな景色であったのだろうか。
かなり広い敷地の外周を金網フェンスで囲っていたが、私たち小学生はフェンスを乗り越えたり、門から紛れ込んだりして、中の陸上競技フィールドや野球場やクラブハウスの鯉の池などをうろついていた。当時はそういう子どもに対して寛容だったのかもしれない。
テニスコートがあって、下手をしたボールが山の方へ飛び出してきたりもした。持ち主がフェンス越しに居るようなときは投げ返すこともあったが、ボールばかりが転がっているときは私たちの遊び用として貰っておいた。固くてよく弾むテニスボールは、小学生には珍重物だった。
(「三井グランド」は、今は「明治大学 内海・島岡ボールパーク」になっている。)

グランドの外周の道端で、樹木に藤蔓が絡み下がっているところがあった。雑木林として手入れしていれば、樹木を締め付けて枯らしてしまう藤は根元から刈ってしまうところだろうが、手が入らない浅間山では藤蔓がはびこっていたのだった。子供はこうした藤蔓にぶら下がって「ターザン」気分でいた。

浅間神社の祠がある堂山頂上へは、中山との間から上る土道の女坂と、東側に向いた石段になった男坂があった。
女坂は土がむき出しで抉れていたから、雨の後などはズルズル滑って、小学生の歩幅ではいくら足を掛けてもずり落ちた。しかし登れないと言っていては置いていかれるので、道端の草でも樹でも掴みながら何とか頂上まで登るのである。
頂上の祠は円周を土留めした塚の上に置かれていて、石の厨子が転がっていた。(転がっていた?ような記憶がある。)時々人が来て祀っているような気配はあるものの、全体の様子は荒れていた。厨子の蓋をいじくりながら何か神様らしい欠片でもないかと思うのだが、どうも期待外れの風景であった。
男坂は急な石段である。段は上から下まで整然としているのではなく、ところどころ石がずれたり、何か他からの転用の石材なのか並びが乱れていたから、駆け降りるには気を張って向わなければならなかった。どうにも歩幅が合わず、つんのめってしまいそうになるので、いっそ石段の脇の土の斜面を駆け降りた方が早かったのだが、そこはそこで不意に滑って尻餅をつき、ズボンを泥だらけにしてしまうのだった。
石段を下りきったところに石の鳥居があり、三井グランドの正門が向かい合っている。ここからまた右への道を中山の方へ上り返してもよし、グランドのクラブハウスの池の鯉をのぞきに行ってもよし、左へグランドの外周を回り込んで人見稲荷神社まで足を延ばして、縁の下のアリジゴクを見るのもよい。

堂山の北側では峠道の開削が途中だった。土がむき出しの切り通しになっていた。堂山の北斜面を下ってくると、いきなり土の崖になるわけだ。Knちゃんなんかはピョンと跳んで降り立つのだけども、私はどうしても怖くて尻を擦って降りた。Knちゃんが切り通しの断面を指して化石や粘土の話をしても、私はズボンや手についた泥の方が気になっていた。
(今はこの峠の切り通しのところに吊り橋「きすげばし」が掛かって、向こう側に渡れるようになっている。)

切り通しをずり降りたら、また向こう側を登る。峠の向こう側にもまだ少し浅間山が続いていて、そしてそれは多磨霊園へ落ち込んでいく。山際に湧水が溜まった溝があって、オタマジャクシやゲンゴロウ、ヤゴなどの狩場であった。
山陰のジメジメした場所であり、墓地の片隅という位置もあって人影は無く、山の木々が頭の上に覆いかぶさって陰気な場所になっていた。オタマジャクシでも捕ろうという小学生くらいしか来る者はいなかった。
溝は田舎の用水路のようにコンクリート板で補強してあったが、水は淀んで動かなかった。子どもが手を伸ばしていじれるところに水面はあるのだが、深さは計り知れなかった。入ったら足が立つのか、それとも背の高さよりも深いのか? どちらにしても、ヒキガエルの卵とミドロでどろどろしていて、水面はアメンボだらけの溝の中に浸ってみようとは思わなかった。

私は小学校の学年が上がるにつれ、あまり浅間山へは遊びに行かなくなっていった。遊びには流行り廃りがあるものだし、空き地で野球をしたり、模型工作をするのにも忙しかったからである。ときどき落ち葉やドングリを拾う用がある時とか、年の初めなので浅間神社にも参ろうかというぐらいしか、浅間山へは立ち入らなくなった。

その間浅間山は、1970年(昭和45年)6月に都立浅間山公園として開園した。雑木林も手入れされるようになって、下草の様相も変わってきた。遊歩道ができ、斜面には丸太を土留にした階段も作られた。浅間山にしか自生していないというムサシノキスゲが話題になり、野草ブームだかでキンラン・ギンランも注目され、浅間山自然保護会が1982年(昭和57年)に発足した。
公園として植物は保護されるようになったが、植生は単調になったように思う。

私が再び浅間山に入るようになったのは、大学生のころに家で犬を飼うようになったからである。
父がどこかから貰ってきた、柴と四国犬の混じったような雌であった。柴犬にしては鼻筋が妙に長く見えて、「ハナ」と名付けられた。
ハナの朝夕の散歩はもっぱら浅間山だった。
ハナの躾けはさっぱりで、いったん手綱が離れようものなら「来い」と呼んでも言うことは聞かず、飼い主の顔をうかがいながら、いつまでもその辺をチャラチャラとほっつき歩いた。だから住宅地で逃げられて他所の庭先にでも逃げ込まれるよりは、山の中を追いかけ回せるほうが人も犬も気が楽だったのかもしれない。
じっさいハナには山で猟をした日本犬の血が継がれているのか、浅間山へ散歩に行くとなると張りきった。私もたいていサンダル履きだったが、ハナに引かれて山の中を走り回るのは爽快だった。遊歩道も斜面も飛び越えて走り回り、窪地の野糞を踏んづけたこともあった。

ハナは家では柵で囲われた庭に居て、隙間から鼻先を出して道を眺めていたから、近所の人々にも顔が知れていて、散歩に出ると「あら、ハナちゃん」と声がかかったり、飼い主よりも顔が広いくらいだった。
私もいつの間にか「ハナにいちゃん」とあだ名が付き、近所の子どもたちに懐かれるようになった。
何か特別な遊びをするわけではなく、ハナの散歩がてら子どもたちを引き連れてその辺を歩くだけだが、浅間山はお気に入りコースで、私が小学生のころ歩き回ったようなところを登り下りすると、子どもたちは面白がってついて来るのだった。

ハナと私きりで浅間山へ散歩に行ったときのこと。山の中でモトクロスバイクを乗り回しているやつがいた。なるほど浅間山で乗ったら面白いのだろう。しかし土や草がブロックタイヤで削れてしまう。バイクは競技に出られるようなもので、男もプロテクターを付けて本格的だ。こんなやつらが、浅間山をうってつけの走行場所だと集まってきたら厄介だ。
思い切って「あの、バイクは乗り入れ禁止ですよ。」と声をかけると、男はバイクを降りて私の胸先に立ち「なんだこの野郎」とやり始めた。男は私と同じくらいの年かと思われたが、私はそのときワイシャツ姿だったので、高校生くらいに見えたのかもしれない。お楽しみのところを注意されたのが気に障ったらしく、「生意気だ、ぶん殴ってやる。」「俺は空手をやっているから、殴ったら殺人になる。」「かわりに殴るやつを連れてくるから、それまでここを動くんじゃねえぞ。」と文句を並べた。威圧はしてくるが手はかけてこない、(空手ってのは本当なのかな?)と思っていると、「いいな、わかったか!」「わかりました」
男がバイクにまたがり山を下って見えなくなるのを確かめて、私もハナとともに駆け下って家に逃げ帰った。わざわざ殴られるために立ちん坊で待っていることはない。あの後、男は仲間を連れて戻ってきたのだろうか?

(ハナは雷が大嫌いだった。雷雨に見舞われたある日、恐怖のあまり庭の柵を飛び出したあげくクルマに轢かれ、保健所に保護された。腰骨を割られ、内臓も傷ついているとのことだった。首を抱いてやりながら獣医の注射で死なせた。)

その後、私は結婚して府中市を離れた。浅間山へはまれに実家を訪問するときに立ち寄るぐらいだ。
しかし新小金井街道を走るバスに乗り《浅間山公園》で下車すると、「帰ってきたなあ」という気持ちになり、浅間山の遊歩道へつい寄り道したくなるのである。


浅間山北麓1 浅間山北麓のようす。(1967年)
左のピークが、浅間神社がある堂山である。
現在と比べると、背の高い松の木がたくさん生えていた。
浅間山から北西麓を望む 浅間山の北面から、万年塀に囲われた「サイキ不動産用地」越しに北西麓を望む。(1967年)
畑や平屋の民家の向こうに見える建物は、米軍基地の施設。
浅間山北麓の住宅 浅間山北麓の住宅。(1967年)
屋根越しに見える松の木が生えたピークは浅間山の前山である。畑になっていない空き地はススキの薮で、そこが切り売りされて住宅が建ちはじめていた。
私たち一家の新居 私たち一家の新居。(1967年)
当時のプレハブ住宅はこんなふうである。
このころたいていの道路は未舗装。
トイレは汲み取り式。
各戸の壁際にプロパンガスのボンベが置かれていた。
浅間山西麓から(1997年)

浅間山西麓から(1997年)

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