歴史index 府中市 浅間山   2013.12.16 改訂2014.09.25
浅間山(東京都府中市)についてのメモ
冨田悦哉
ふるさとの山、浅間山について古い記録をたどっておこう。
あまり意識したことはなかったが、3つの頂にはそれぞれ名前がついている。その出所はどこか?
 
  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。


・浅間山の地形 (府中市史より)
・都立浅間山公園 (都立浅間山公園の解説)
・浅間神社 (JA広報誌「まいんず」の記事から)
・人見原古戦場 (東京都指定文化財(旧跡)の解説)
・人見街道 (Wikipedia等を参照)
・新編武蔵風土記稿 (『新編武蔵風土記稿』 明治17年6月内務省地理局版 および平成8年6月20日発行 蘆田伊人校訂 雄山閣版)
・武蔵名勝図会 (『武蔵名勝図会』 片山迪夫校訂 慶友社 1993年1月22日新装発行)
・注記
 
メモ
浅間山の地形(府中市史より)

 立川段丘面地域で特異な地形は、地域の東部にある浅間山である。
  この山は立川段丘面(高さ50メートル)から突き出し、孤立した丘陵で、高さ約80メートルある。南から北へ前山、中山、堂山と三つの山崖からなり、最高部は北部の堂山である。周囲の立川面との比高約30メートルであって、周辺にさえぎるものがないので山頂での眺望はすこぶるよい。
 浅間山の地質は多摩丘陵を構成する三浦層群から成るもので、周囲の段丘の地質とは全く異なっている。すなわち武蔵野段丘や立川段丘の形成される以前に、すでに、古多摩川やその他の河川によってその周辺がけずり取られ、孤立丘となって残った侵食残丘である。従って、地形的には多摩丘陵の一部で、多摩段丘に属していると考えられる。


浅間山: 現代では「浅間山〈せんげんやま〉」という名称が一般的になっている。古くは「人見山」とも。

立川段丘面: 武蔵野台地では2種類の発達した河岸段丘が見られる。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたもので、低位面を立川面(あるいは立川段丘)、高位面を武蔵野面(あるいは武蔵野段丘)と呼ぶ。もうひとつは北部に見られるもので、かつての多摩川の流路の名残りと考えられているものである。

現在都立公園になっている浅間山の3つの頂は「堂山・中山・前山」と称していたことがわかる。

浅間山は、大昔は、浅間山から見て多摩川を挟んで対岸の多摩丘陵と一体の地層だったが、古多摩川の浸食作用により切り離され、削れ残った部分だという。そのため、周囲の土地とは地質が異なる。 
(都立浅間山公園の解説)

 都立浅間山公園は標高80メートルあり、府中市で一番高いところで、前山、中山、堂山の三つ山から成っていて、堂山山頂には浅間神社があります。
 この山には、ここを唯一の自生地とする『ムサシノキスゲ』があり、五月の中旬に黄色の美しい花を咲かせます。
 浅間山は、自然史的に見て特異な存在の山で、地質が付近の段丘地質と全く異なる御殿峠礫層から成っています。これは多摩丘陵と同じ種類の地質で、洪積世時代に古い河川の浸食により作られた孤立丘で、すでに武蔵野段丘や立川段丘が形成される以前に古多摩川によって周囲を削り取られ孤立して残った浸食丘だといわれます。
 このふもとに、太平洋戦争中防空壕が掘られ、そこからカキがらの化石等が出ます。
 ここには縄文時代の遺跡も存し、石鏃、石斧等が採集されています。




現在都立公園になっている浅間山の3つの頂は「堂山・中山・前山」と称していたことがわかる。

洪積世時代: 地質時代の区分の一つで、約258万年前から約1万年前までの期間。更積世のほとんどは氷河時代であった。
現在は「更新世」と呼称する。

防空壕: 敵方の航空機の攻撃(空爆、機銃掃射)から避難するために地下に造られた施設。避難壕 (Shelter) の一種である。

浅間神社(JA広報誌「まいんず」の記事から)

 このお社は浅間山通りの若松町五丁目の北の丘上に鎮座をしております。この丘は前山・中山・堂山の三峰からなり、堂山の頂上にこのお社があることから浅間山と呼ばれ、市の案内板によりますと南北朝の頃の古戦場で都の旧跡指定地となっております。
 神社のご祭神は「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)」で風土記稿の案内は前記のとおりですが、神社誌や明治の頃の明細書では「祭神木花佐久夜比命・由緒鎮座の起源年月未詳 社殿間口二尺奥行二尺但し『石ノ宮』境内百坪 立木十五本 信徒五十九人」となっております。
 社殿までは段が続き百段位はあります。
 まず少し登ると「浅間神社」と刻む石額を掲げる石鳥居があり「昭和七年三月皇紀2592年」に氏子中が建立をしたものです。この鳥居は改修されたものと思われ、旧鳥居の柱石が階段の土留めに利用され「願主関田勘左衛門」「□応元年」の文字が残されています。
(浅間神社境内図:石鳥居、旧鳥居柱石、参道石段、手洗石、石祠、富土講碑?台のみ)
 階段を登りつめ、海抜八十米といわれる頂上に達しますと高い石積の上に二尺四方位の石祠が鎮座をしており、明細書に記す「石ノ宮」そのままの形となっております。
 祠に登る石段の柱石には「江戸京橋銀座二丁目大坂屋・常久升(マス)屋河内」が「願主」とし「天保七年申八月(1837)世話人□」等の文字が読みとれます。
 祠の台石には「聖坂者中」「大工金次郎・家根方万次□・ぬ□・木鉄吾」が「世話人」として記され、石祠には左に「世話人当所田中伝左衛門・加藤佐久右衛門・鈴木左衛門・河内利兵衛・宇佐美弥右衛門・同□衛門・村中宗吉・惣村中」 右に「世話人三田聖坂石川金蔵・万屋九兵衛・中村屋伊右衛門・建屋万治郎・大工安兵衛・石工新藏」「天保七年丙七月三日(1836)願主木花堂熊次郎」と刻まれています。
 さらに祠の裏面には三段書で多数の人名がありますが風化し判読は困難です。主な人名を記しますと、「□屋次郎・大坂屋二・越前屋弥市・肴屋長治郎・三田□ 者中・□四丁目者中・音屋岩・伊勢屋常・花屋五兵衛・左官半次郎・大工平兵衛・橘屋和兵衛」等々が読みとれ全体では三六名となっております。
 なお、お社の前には手洗石がありますが文字はありません。その右に碑石の台石と思われる石材がありますが碑文石はなく富土講碑があったのかもしれません。
 山頂に鎮座するお社ですが散策をする方も多く、参拝する方を度々お見受けする神社です。




現在都立公園になっている浅間山の3つの頂は「堂山・中山・前山」と称していたことがわかる。

コノハナノサクヤヒメ: 日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。
天照大神の孫であるニニギノミコトの妻。オオヤマツミ(大山祇神)の娘。

社殿までは段が続き: 参道男坂の石段のこと。


















碑文石の部分は折れ、紛失している。

人見原古戦場(東京都指定文化財(旧跡))

 南北朝時代の動乱期、1352年(正平7年)、新田義貞の息子である新田義興・義宗の兄弟は、浅間山周辺の人見原(ひとみがはら・府中市)と金井原(かないはら・小金井市)で、足利尊氏と対戦しました。
 足利尊氏はここで敗北し、石浜(台東区・荒川区)へ撤退、その後、小手指原・高麗原へ転戦していきました。




正平: 元号の一つで南朝方にて使用された。



人見街道

 浅間山の南麓を「人見街道」が通っている。この街道は国府の府中から人見村、三鷹牟礼等を経由して杉並の大宮八幡に至る。「大宮路」「府中路」ともいう。
 人見村は現在の若松町三・四丁目の一部(人見街道沿い)に中心があった村落であり、幕末の地誌には「民家五十八軒、府中路(人見街道)の往来に並居す」とある。
 さらに古くは人見村落は街道筋でなく浅間山の麓にあったと言い伝えられていて、街道筋に集落を開いたのは近世以降のことだという。




人見街道の始点は武蔵国府であり、浅間山(人見山)の南麓を東へ向かっていた。後に1941年、浅間山の西に旧日本陸軍の基地(燃料廠)ができたため分断された。



新編武蔵風土記稿. 巻之89 多磨郡之1

人見山
府中領人見村にあり。村の西寄にて三ヶ所に屹立し堂山中山浅間山と唱う。其浅間山を第一として、其二は堂山、其三は中山なり。浅間山の高さ廿間許、堂山は十四五間程、中山は十間許。其形丸くして山上は平坦なり。第一は五六間許、其次は四間四方程、其次は二間四方許なり。西の方は陸田にて地より築揚たるが如く東向なり。堂山中山は東の方へ一段低く三方へなだれたり。周廻凡ニ町許、此内中山は分界をとれり。浅間山は東北の間へ一段低きなだれ山あり。周廻凡そ四町歩許なり。茲に奇異なることあり、此四辺は悉く黒野土なれども、山の土性は真土なり。是をもて考るに、全く築き立たる山に似たり。此所より玉川へ廿五六丁、府中まで十八丁、北の方狭山をさること三里許、江戸へは六里許、西の方へ五里余の間平原にして、中に此土山あること一奇なり。扨此山に付て一説あり、上古当国造の堂域なるべしとも云えど、未だ真をしらざれば茲に記せず。

陸田〈りくでん〉: はたけ。または特に粟・麦・豆などの雑穀耕作を行なった土地をいう。

なだれ: 傾れ。尾根つづきになるのではなく、麓に向かって低くなっていく状態であること。

分界をとれり: 『武蔵名勝図絵』では「分界劣れり」としている。

上古: 歴史時代の前期(およそ古代と中世)を上古・中古・近古に三分した最初である。歴史時代の最初であり、文献記録をたどれる最初の時代である。古墳時代・飛鳥時代。

国造〈くにのみやつこ・こくぞう〉: 古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

堂域: 墓所の意味。

新編武蔵風土記稿.巻之93 多磨郡之5
人見村の項から抜粋

・堂山 
村北の丘岡なり。凡登り一町余。土人是を人見山と云。平地に突出して塚の如し。故に或は人見塚とも云。村内観音堂の旧地なる故、かく堂山と呼べりとぞ。

・中山 
堂山より西の丘岡を云。この地に澗泉あり。浅間出現の清水という。

・前山 
中山の西にあり。

・浅間社 
小社、堂山の丘上にあり。例祭六月朔日。神体は仏躯にして立身の銅仏を安ず。長一尺五寸。もと村内中山の清泉より出現せりと云。旱魃のときには土人此像を、かの清泉の所に遷して雩祭すれば必ず感応ありという。

・観音堂 
三開半四方。客殿の前にあり。大悲山の三宇を扁す。正観音、長一尺五寸、立身。往古は人見山にありしをいつの頃かこの地に遷せりといふ。古き鰐口あり、径七寸五分、背に当山主当玄雪房乃至法界平等而已とあり。面図のごとし。
(鰐口の図:銘は「武多東郡府中人見郷観音堂。天正八年卯月十八日再造修移奉也。城山田、坪井、久勝、寄進、■■。」と見える。中央に紋がある。くちなし紋か?)

一 番の頂は観音堂があったので堂山と呼ばれると述べている。堂山にはもと観音堂があったが現在は浅間社が祀られているとの記述である。浅間社の神体は銅製仏像である。これと観音堂との関係は明記していないが、同じ一尺五寸であることから観音堂は浅間社神体を本尊としている? 神仏混淆の時代である。

土人: 村人のこと。地元の人。

朔日: 月のはじめの日。一日。

雩祭〈うさい〉: 雩〈あまひき〉。雨乞いの祈り。

扁す: 「扁額」を掲げるという意味で、扁額を掲げた堂の一つであるということか?

幸福寺の山号は大悲山。本堂の参道をはさんで客殿と観音堂が向かい合って建ち、三宇(3つ建物)があったという記述か。
(幸福寺および観音堂は、現在の人見には存在しない。)

観音堂が人見集落に移設されたのは何時か?

武(武州): 武蔵国のこと。

多東郡: 12世紀半ば以降、多摩郡の東部を多東郡と称していた例がある。

天正〈てんしょう〉: 元号の一つ。1573年から1592年までの期間。織田信長、豊臣秀吉のころ。

城山田: この個所、『武蔵名勝図会』を参照すると、「山城国」と読み取るらしい。

■■: 「扱田」のように読めるが、意味不明。

武蔵名勝図会. 多摩郡之部 巻第4
人見村の項から抜粋

府中駅より十八町を隔て、東の方に当る。この村は往古武蔵国七党の内より出たる人見氏の住居せし地なり。人見氏は猪俣党にして、その初めは横山党より出たり。岡部などと党を同じくす。村内に上屋敷、下屋敷などいう地あり。上屋敷というは村の西にあり。下屋敷というは村の東にあり。何人の住したることも知れずといえども、正慶の頃は人見氏の住せしなるべし。

(系図から)
光行(人見四郎入道恩阿は正慶ニ年二月二日本間九郎資貞と同じく先発して、赤坂の城にて討死すること太平記に見えたり。)

・古戦場 
これも、その地詳かならず。観応二年二月廿日合戦のことは、「新曽彦太郎光久軍忠を申す状」にも、また「高麗彦四郎経澄が軍忠を申す状」にも、「於人見原散々致合戦通裏訖云々」とあり。これらの人々は尊氏将軍が旗下なり。

・浅間社 
小祠、浅間山という山上にあり。神体銅像なり。長さ一寸六分許。中山というところの北の麓に清水の小池あり。その清泉より出現せり。里人霊験ありとて尊信す。旱する時は、その霊像を清水へ持ち行きて雨を祈るに必ず験あり。霊像は村内幸福寺にあり。

・観音堂 
この村内に丘陵の如き山三つ相並べり。観音堂ありしゆえ、堂山と唱う。いまは村内幸福寺境内へその堂を移せり。堂山にありしときの鰐口、いまの堂前に掲げ置けり。

・人見山 
村の西寄りにあり。三ヶ所屹立し、堂山、中山、浅間山と唱う。その内にて浅間山を第一とす。そのニは堂山、その三は中山なり。浅間山の高さ廿間許。堂山十四、五間、中山十間許なり。その形丸くして、山上はて平坦なり。第一は五、六間四方、その次は四間四方、その次はニ間四方程なり。西の方は陸田にして、地より築き上げたるが如く、堂山、中山は東の方へ一段低くなだれたり。周廻凡そニ町歩程。この内、中山は分界劣れり。浅間山は東北の間へ一段低きなだれ山なり。 周囲凡そ四町歩程。
ここに奇異なることは、この四辺ことごとく黒野土なれども、この山の土性は真土なり。築きたてたる山に似たり。ここより玉川へ廿五、六町、府中まで十八町、北の方の狭山を 距てること三里許、江戸へ六里、西の方へ五里余の平原の中に、この山ある事は一奇なり。
扨、この山につきて、往々異説あり。或る人語るに那須に国造の碑ありて、人これを称すれど、碑面の文によって考うれども国造の姓名など分かち難し。古き塚の中にて大なるを穿ちみれば何ぞ文字を誌せしものやあると、水府義公掘らせられしことあり。塚の高さ十間、或は十五間。周廻五、六十間。土人名付けて車塚と唱うるものなり。これは一段低きところあるゆえなりと云。上古の塚はニ段に築けり。中古に至りて、形丸くなれり。一段低きは祭典を行うところなりと云。この山は恐らく国造の廟なるべし。又、土の違えるは、土民などの外より運び来たりて築きたることなりと語れり。
これにて考うるに、中山というところの後より清水出るは、先に浅間の銅像出現せしところなりと云。その場所へ至りみるに、一尺ばかりの穴ありて、塚中より湧きでるさまなれば、銅像などを埋めたるが自然に水にて流れでたることにやあらん。

(人見山の絵図に添書:
 人見村 
  浅間山
  中山
  堂山
 此三ヶ所の山を人見山と唱ふ)






正慶: 元号の一つで北朝方で使用された。1332年から1333年5月25日までの期間。正慶二年は1333年。





現在の浅間山には「人見四郎墓跡」と伝承される場所が前山尾根上にある。



観応二年二月二十日合戦: 「観応三年閏二月二十日」の誤記か? 観応の擾乱にともなう武蔵野合戦のうち人見原・金井原の合戦のこと。観応三年は1352年。

軍忠を申す状: 軍忠状〈ぐんちゅうじょう〉とは、中世日本において、参陣や軍功などを証する書類。

通裏記: 何の意味か?

浅間社神体である銅像は村中幸福寺に保管されている、という記述である。(観音堂は幸福寺の一宇になっていた。) 
現在、幸福寺は存在しない。市の資料集に「霊像は約四糎の焼けた十一面観音立像で村内の河内家保存のものがそれと思われる」という記述があるという。

『武蔵名勝図会』では人見山の3つの頂を「浅間山・中山・堂山」(総称して「人見山」)と記している。これは『新編武蔵風土記稿』多磨郡之5の「堂山(人見山)・中山・前山」と異なる説である。
『武蔵名勝図会』の著者植田孟縉は『新編武蔵風土記稿』の編纂にも参加しており、この差異は不可解であるが植田があえて自説を掲載したのかもしれない。

なだれ: 傾れ。尾根つづきになるのではなく、麓に向かって低くなっていく状態であること。

水府義公: 水戸藩の徳川光圀のこと。

人見山の土質の特異性から、話は那須の国造墳墓との比較類推になり、人見山は墳墓であり銅像は埋葬品が流出したのではないかという説を紹介している。人見山が古墳だとすると、墳丘について仁徳天皇陵(大仙古墳)を超える日本一の大古墳ということになる。
→「浅間山の地形(府中市史より)」を参照のこと。

考察

現代では「浅間山〈せんげんやま〉」という名称が一般的になっている。
古くは「人見山」とも呼ばれた。

『新編武蔵風土記稿』多磨郡之1では3つの頂を「浅間山・中山・堂山」と記し、多磨郡之5では「堂山(人見山)・中山・前山」と記しており、記述に乱れがある。

『武蔵名勝図会』では3つの頂を「浅間山・中山・堂山」(総称して「人見山」)と記している。

現代では、府中市史をはじめ、『新編武蔵風土記稿』多磨郡之5の呼称「堂山・中山・前山」を採用する例が多い。
これには何か確証があるのだろうか。『新編武蔵風土記稿』の記述の乱れについてはどう解釈したのだろうか。

また現代では、3つの頂を総称して「浅間山〈せんげんやま〉」と呼んでいる。古くは「人見山」という名称の方が一般的だったようだが、名称が変化した時期・理由は何か?



浅間山前山の尾根上にある「人見四郎の墓跡」については、
→人見四郎(東京都府中市浅間山に墓跡が伝承される)についてのメモ

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