歴史index 府中市 浅間山   2013.12.18  改訂2014.09.25
武蔵名勝図会 人見村・人見山(東京都府中市の浅間山)についてのメモ
 
武蔵名勝図会の人見村の項を読む。
直接の動機は、(1)人見村と人見氏の関係をさぐること、(2)浅間山についての記述を確認することにある。
 
  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。


武蔵名勝図会〈むさしめいしょうずえ〉
江戸時代後期、多摩郡の名所・旧跡が挿絵入りで纏められた地誌(全12巻)。著者は八王子千人同心の出である植田孟縉(うえだもうしん)。文政6年(1823年)、昌平坂 学問所に献上された。昌平坂学問所地理局による地誌『新編武蔵風土記稿』の編纂事業(文政9年(1826年)完成)に植田も千人同心組頭として地誌の資料 収集等に参加したが、『武蔵名勝図会』はその副産物ともいえる。植田が画家・洋学者の渡辺華山から画を習得していた経験から挿絵や 記述などで『新編武蔵風土記稿』とは違う独特の持ち味があるといわれる。

『武蔵名勝図会』 片山迪夫校訂 慶友社 1993年1月22日新装発行
 
メモ
武蔵名勝図会 多磨郡之部 巻4 から

人見村
 府中駅より十八町を隔て、東の方に当る。この村は往古武蔵七党の内より出たる人見氏の住居せし地なり。人見氏は猪俣党にして、その初めは横山党より出たり。岡部などと党を同じくす。村内に上屋敷、 下屋敷などいう地あり。上屋敷というは村の西にあり。下屋敷というは村の東にあり。何人の住したることも知れずといえども、正慶の頃は人見氏の住せしなる べし。

系図云
 横山時資は武蔵権介義孝の舎弟なり。(この義孝という人始めて多磨郡横山庄に住す。)
 人見四郎入道は正慶ニ年二月二日本間九郎資貞と同じく先発して、赤坂の城にて討死すること太平記に見えたり。

府中駅: 甲州街道(甲州道中)の府中宿のこと。

武蔵七党: 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。

正慶〈しょうきょう〉: 元号の一つで北朝方で使用された。1332年から1333年5月25日までの期間。鎌倉幕府の滅亡など。
南朝方で使用された元弘〈げんこう〉の時期にあたる。

ここで系図を引いてきているが、これは人見氏の資料であって、人見村の資料ではないことに注意したい。

人見四郎は2人いる。忠衡(平家物語)と光行(太平記)。


  時資(横山介三郎)─ 時範(猪俣兵衛尉)─ 忠兼(野三郎)─┐
                                │
  ┌─────────────────────────────┘
  │
  ├忠基(野太郎)─── 政基(河勾五太夫)─ 政経(人見六郎。この人始めて人見村に住す。是より子孫多し)──────┐
  │                                                         │
  ├政家(猪俣小彌太)─ 資綱(猪俣小二郎)─ 範綱(猪俣小平太。保元平治の乱に先陣す。一の谷合戦に越中前司を討つ) │
  │                                                         │
  └忠綱(岡部六太夫)─ 行忠(岡部六郎)─ 忠澄(岡部六彌太。一の谷にて軍功あり。平忠度を討つ)          │
                                                            │
  ┌─────────────────────────────────────────────────────────┘
  │
  ├高経(人見小三郎。東鑑に見ゆ)─ 忠衡(人見四郎。平家物語に見ゆ。この忠衡より五代人見四郎入道光行)───────┐
  │                                                         │
  └行経(人見八郎。承久記に見ゆ)                                          │
                                                            │
  ┌─────────────────────────────────────────────────────────┘
  │
  └高行(人見六郎)─ 高綱(人見太郎)─ 某(彦太郎)─  光行(人見四郎入 道恩阿。元弘の乱に討死。太平記に見ゆ)


上屋敷
 村の小名とす。ここは古え人見氏の住せしなるべし。古塚一ヶ所あり。この外にも古塚四ヶ所いまは百姓屋敷地にあり。高さ八、九尺、その謂われ不知。

古塚
 上屋敷と号するところに一ヶ所、村の西通りの北の方にも二ヶ所、又、村の西の百姓屋敷内に一ヶ所、村の東の百姓屋敷内に一ヶ所、都合五ヶ所。各高さ八、九尺許。これも人見氏が塚なりと云。或云塚の形を見るに、人見氏この地に住せしよりも古き塚なりとも云。

古戦場
 これも、その地詳かならず。観応二年二月廿日合戦のことは「新曽彦太郎光久軍忠を申す状」にも、また「高麗彦四郎経澄が軍忠を申す状」にも「於人見原散々致合戦通裏訖云々」とあり。これらの人々は尊氏将軍が旗下なり。

浅間社
 小祠、浅間山という山上にあり。神体銅像なり。長さ一寸六分許。中山というところの北の麓に清水の小池あり。その清泉より出現せり。里人霊験ありとて尊信す。旱する時は、その霊像を清水へ持ち行きて雨を祈るに必ず験あり。霊像は村内幸福寺にあり。

観音堂
 この村内に丘陵の如き山三つ相並べり。観音堂ありしゆえ、堂山と唱う。いまは村内幸福寺境内へその堂を移せり。堂山にありしときの鰐口、いまの堂前に掲げ置けり。

鰐口
 径七寸五分。銘云「武州多東郡府中人見観音堂、山城国坪井久勝寄進、天正八年卯月十八日再造修移奉也、当山主当麻玄雪房、乃至法界平等而已」

人見山
  村の西寄りにあり。三ヶ所屹立し、堂山、中山、浅間山と唱う。その内にて浅間山を第一とす。そのニは堂山、その三は中山なり。浅間山の高さ廿間許。堂山十四、五間、中山十間許なり。その形丸くして、山上はて平坦なり。第一は五、六間四方、その次は四間四方、その次はニ間四方程なり。西の方は陸田にして、地より築き上げたるが如く、堂山、中山は東の方へ一段低くなだれたり。周廻凡そニ町歩程。この内、中山は分界劣れり。浅間山は東北の間へ一段低きなだれ山なり。周囲凡そ四町歩程。
 ここに奇異なることは、この四辺ことごとく黒野土なれども、この山の土性は真土なり。築きたてたる山に似たり。ここより玉川へ廿五、六町、府中まで十八町、北の方の狭山を距てること三里許、江戸へ六里、西の方へ五里余の平原の中に、この山ある事は一奇なり。
 扨、この山につきて、往々異説あり。或る人語るに那須に国造の碑ありて、人これを称すれど、碑面の文によって考うれども国造の姓名など分かち難し。古き塚の中にて大なるを穿ちみれば何ぞ文字を誌せしものやあると、水府義公掘らせられしことあり。塚の高さ十間、或は十五間。周廻五、六十間。土人名付けて車塚と唱うるものなり。これは一段低きところあるゆえなりと云。上古の塚はニ段に築けり。中古に至りて、形丸くなれり。一段低きは祭典を行うところなりと云。この山は恐らく国造の廟なるべし。又、土の違えるは、土民などの外より運び来たりて築きたることなりと語れり。
 これにて考うるに、中山というところの後より清水出るは、先に浅間の銅像出現せしところなりと云。その場所へ至りみるに、一尺ばかりの穴ありて、塚中より湧きでるさまなれば、銅像などを埋めたるが自然に水にて流れでたることにやあらん。

(人見山の絵図に添え書き:
人見村 
 浅間山
 中山
 堂山
此三ヶ所の山を人見山と唱ふ)














観応〈かんのう〉: 元号の一つで北朝方で使用された。1350年から1352年9月までの期間。9月27日文和に改元。

観応二年二月二十日合戦: 「観応三年閏二月二十日」の誤記か? 観応の擾乱にともなう武蔵野合戦のうち人見原・金井原の合戦のこと。観応三年は1352年。

新曽彦太郎光久および高麗彦四郎経澄という2人の武士の「軍忠を申す状」: 軍忠状〈ぐんちゅうじょう〉とは、中世日本において、参陣や軍功などを証する書類。

通裏記: 何の意味か?

浅間社: 神体である銅像は麓の村の幸福寺に保管されている、という記述。

観音堂: 堂山の「堂」は観音堂のことだという記述。ただし昔は神仏混淆であることに留意したい。





天正八年: 1580年。この鰐口銘には「再造修移」とあるが観音堂移築年を指しているのか?それとも鰐口の製作年か? 旧堂の鰐口を新堂で掲げているかのような記述もあるが、この鰐口は新堂移築時に製作したのか? 観音堂の移築はいつか?

鰐口の銘については、新編武蔵風土記稿の挿絵では「人見郷」となっており、「城山田」と読める。また「撒油」の文字もある。

なだれ: 傾れ。尾根つづきになるのではなく、麓に向かって低くなっていく状態であること。

国造〈くにのみやつこ・こくぞう〉: 古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

水府義公: 水戸藩の徳川光圀のこと。

上古: 歴史時代の前期(およそ古代と中世)を上古・中古・近古に三分した最初である。歴史時代の最初であり、文献記録をたどれる最初の時代である。古墳時代・飛鳥時代。

中古: 平安時代。

近古: 鎌倉時代・室町時代。

人見山の土質の特異性から、話は那須の国造墳墓との比較類推になり、人見山は墳墓であり銅像は埋葬品が流出したのではないかという説を紹介している。人見山が古墳だとすると、墳丘について仁徳天皇陵(大仙古墳)を超える日本一の大古墳ということになる。





人見山絵図への添え書きは『武蔵名勝図会』片山迪夫校訂版にはない。

考察

『武蔵名勝図会』は、『新編武蔵風土記稿』の調査・編纂の副産物という解説もあり、「独特の持ち味がある」という評もある。
しかしこうして人見村の項を読み比べてみると、『新編武蔵風土記稿』に対して『武蔵名勝図会』は表現の違いだけでなく、独自の見解を述べており、副産物というよりは植田孟縉が自説発表の場を欲した?と見ることもできるのではないか。

『武蔵名勝図会』では、人見村は武蔵七党の人見氏の住居地であったと主張している。
この主張は村民の伝承を根拠にしているのか、単に「人見」の名からの推測なのかは不明である。

「上屋敷・下屋敷」という小名についても、むかし人見氏の住んだ所だとしているが、確たる根拠はなさそうである。
「何人の住したることも知れずといえども、正慶の頃は人見氏の住せしなるべし」とまで言っているが、ここで正慶を出してくるのは、これ以降鎌倉幕府が滅亡し、武蔵国での人見氏の勢力が衰えるからであって、正慶について確たる根拠はなさそうである。

(『新編武蔵風土記稿』においては人見氏の存在についてまったく言及されない。)
(現在の浅間山には「人見四郎墓跡」が伝承される場所が前山尾根上にあるが、人見氏の存在を断定する『武蔵名勝図会』においてさえ 「人見四郎墓」についてまったく言及が無いことに注意したい。)

『武蔵名勝図会』では人見山の3つの頂を「浅間山・中山・堂山」(総称して「人見山」)と記している。
(ここで「浅間山」という名称が登場する。)
これに対して、『新編武蔵風土記稿』多磨郡之1では「浅間山・中山・堂山」とし、多磨郡之5では「堂山(人見山)・中山・前山」としていて、記述に乱れがある。
(現代では、府中市史をはじめ、『新編武蔵風土記稿』多磨郡之5の呼称「堂山・中山・前山」を採用したうえで、3つの頂を総称して「浅間山(せんげんやま)」と呼んでいる。)(なぜそうしたのか?)

堂山の「堂」は観音堂のことという点は同じであるが、その場所については両書の記述は異なる。
『武蔵名勝図会』では、北東側の頂は浅間社があり浅間山と称する。南西側の頂は観音堂があったので堂山と称する。それぞれの場所と名称があり、イメージとしては収まりが良い。神体銅像が「観音像」であるとの記述は無い。

『新編武蔵風土記稿』多磨郡之5では、北東側の頂は観音堂があったので堂山と称する。観音堂は後に麓に移設され、いまは浅間社があるという。観音堂と浅間社が山上に同時に建っていたことがあったかどうかは不明。神体銅像は「観音像」であるとされ、神体と観音堂本尊が同一であることを窺わせる。
いま浅間社があるにもかかわらず、元は観音堂があったことを理由に「堂山」という名称だということは、もし北東側の頂に観音堂があったとしても浅間社と同時に建っていたのではなく、ある時期に観音堂と浅間社が交代したのではないか。堂山という名を残すからには当時観音堂は中心的な存在だったと思われる。現 代の北東側の頂において、浅間社が頂中央・参道正面に位置することを見ると、堂と祠が並置されていたとは考えにくい。
(観音堂は山上から麓に移されたという伝承であるが、浅間社が観音堂に代わったとすると、その時ではないか。あるいは、山頂に浅間社を祀るために観音堂を麓に移したとも考えられる。)

人見村の人々が日常的にどう呼んでいたか大変知りたいところで、地元の古老にでも聞いて確かめたいところであるが、今となってはそれはかなわない。

『武蔵名勝図会』の著者植田孟縉は、『新編武蔵風土記稿』の編纂事業にも参加しており、上記のような差異は非常に不可解である。
多磨郡之1は『武蔵名勝図会』と同じ内容であることから、植田孟縉の執筆なのだろう。
多磨郡之5は他者の執筆で、資料も別なのだろうか。
どちらが本当だったのかということも気になるが、植田孟縉の『武蔵名勝図会』著作の理由がどこにあったのかも気になるところである。
『新編武蔵風土記稿』の中での記述の乱れは編纂体制の問題をうかがわせるもので、このあたりに『武蔵名勝図会』著作の理由があるのかもしれない。
『武蔵名勝図会』と『新編武蔵風土記稿』をさらに丁寧に読み比べることが必要であると思う。


→『新編武蔵風土記稿』にはどのように書いてあるか?
新編武蔵風土記稿 人見村・人見山(東京都府中市の浅間山)についてのメモ

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