歴史index 府中市 浅間山   2013.12.17   改訂2014.09.25
新編武蔵風土記稿 人見村・人見山(東京都府中市の浅間山)についてのメモ
冨田悦哉
新編武蔵風土記稿の人見村の項を読む。
直接の動機は、(1)人見村と人見氏の関係をさぐること、(2)浅間山についての記述を確認することにある。
 
  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。


新編武蔵風土記稿〈しんぺんむさしふどきこう〉
文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)。1810年起稿。1830年完成。全266巻。地誌取調書上を各村に提出させたうえ、実地に出向いて調査した。調査内容は自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、およそ土地・地域についての全ての事柄に渡る。新編とは、古風土記に対して新しいという意味で付けられている。同事業では、『新編相模国風土記稿』(1830年起稿、1842年完成。全126巻)も編纂された。両事業には植田孟縉も参加している。

『新編武蔵風土記稿』 国立国会図書館デジタルライブラリー版 (明治17年6月、内務省地理局版)
『新編武蔵風土記稿』 蘆田伊人校訂 雄山閣 (平成8年6月20日発行)
 
メモ
新編武蔵風土記稿 巻之89 多磨郡之1 から

人見山
府中領人見村にあり。村の西寄にて三ヶ所に屹立し堂山中山浅間山と唱う。其浅間山を第一として、其二は堂山、其三は中山なり。浅間山の高さ廿間許、堂山は十四五間程、中山は十間許。其形丸くして山上は平坦なり。第一は五六間許、其次は四間四方程、其次は二間四方許なり。西の方は陸田にて地より築揚たるが如く東向なり。堂山中山は東の方へ一段低く三方へなだれたり。周廻凡ニ町許、此内中山は分界をとれり。浅間山は東北の間へ一段低きなだれ山あり。周廻凡そ四町歩許なり。茲に奇異なることあり、此四辺は悉く黒野土なれども、山の土性は真土なり。是をもて考るに、全く築き立たる山に似たり。此所より玉川へ廿五六丁、府中まで十八丁、北の方狭山をさること三里許、江戸へは六里許、西の方へ五里余の間平原にして、中に此土山あること一奇なり。扨此山に付て一説あり、上古当国造の堂域なるべしとも云えど、未だ真をしらざれば茲に記せず。


陸田〈りくでん〉: はたけ。または特に粟・麦・豆などの雑穀耕作を行なった土地をいう。

なだれ: 傾れ。尾根つづきになるのではなく、麓に向かって低くなっていく状態であること。

分界をとれり: 『武蔵名勝図絵』では「分界劣れり」としている。

上古: 歴史時代の前期(およそ古代と中世)を上古・中古・近古に三分した最初である。歴史時代の最初であり、文献記録をたどれる最初の時代である。古墳 時代・飛鳥時代。

国造〈くにのみやつこ・こくぞう〉: 古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の 改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

堂域: 墓所の意味。

新編武蔵風土記稿 巻之93 多磨郡之5 から

人見村(附持添新田)
 人見村は、郡の東府中駅を距ること十八町程、東の方にあり。郷庄の唱を伝えず。日本橋までの行程七里、東は上染谷・車返・小田分の三村に接し、西は是政・本町のニ村に堺い、南は常久村、北は小金井村に隣り、東西凡八町、南北十町許。地形平衍にしてただ村北に小丘あり。土性野土。検地の年代等を失えり。

古文書に

       (花押)(尊氏)
   着到
           朝夕新曽彦太郎光久謹申
右去観応ニ年七月廿八日自石山寺御出時、至于江州小野大学寺、醍醐、八相山、佐田山、伊豆国府御供畢、次於鎌倉者、去閏ニ月十七日武州御発向之間、令御供人見原入間河原御合戦之御供仕候條、無其隠之抽忠勤上者、下賜御判為備末代亀鏡、恐々着到如件。
   観応三年三月 日

 此外にも高麗郡新堀村百姓甚肋が蔵せし古文書に、高麗彦四郎経澄軍忠をもうす条に、人見原合戦のことをのす、併せ見るべし。此等の文に据れば、観応の頃は原野にして、此地戦場たりしこと知べし。今に至て猶陸田にて水田なし。
御開国の後山中某に賜わり、正保の頃山中七左衛門釆邑たりし由ものに見えたり。是も替られて延宝六年青山某に賜われり、今の鉄之助某に至る。
村内ニ条の程路あり、共に西の方是政村より入、村内凡八町を経て、一は拝島村、一は府中辺より来り、村内へかかること凡八町許、東の方上染谷・車返・小田分三村入会の地をへて、大沢村にて一路となり、江戸へ通うと云。民家五十八軒、府中路の往来に並居す。持添新田は武蔵野の内にて、南は石原宿、北は関野新田、東西は梶野新田ありて挟めり。東西凡八町、南北六町。元文元年十一月大岡越前守検地す。今小野田三郎右衛門御代官所なり。

高札場(村の中央少し東の方にあり)

小名
・堂山 村北の丘岡なり。凡登り一町余。土人是を人見山と云。平地に突出して塚の如し。故に或は人見塚とも云。村内観音堂の旧地なる故、かく堂山と呼べりとぞ。
・中山 堂山より西の丘岡を云。この地に澗泉あり。浅間出現の清水といふ。
・前山 中山の西にあり。
・上屋敷 村西の叢林を云。又村東に下屋敷と呼所あり。昔何人の館跡と云ことを知らず。上屋敷辺に高七八尺許の塚あり。此外にも猶村内四塚あり。大さ大低相似たり。共に何の塚なることを伝えず。

神社
・稲荷社 年貢地、村の北にあり。二間四方の覆屋を設く。村内幸福寺の持。
・浅間社 小社、堂山の丘上にあり。例祭六月朔日。神体は仏躯にして立身の銅仏を安ず。長一尺五寸。もと村内中山の清泉中より出現せりと云。旱魃の時には土人此像を、かの清泉の所に遷して雩祭すれば、必ず感応ありという。

寺院
・幸福寺 境内一段、年貢地。大悲山と称す。村落の北側にあり。天台宗本町安養寺の末。客殿三間に六間。本尊大日、木の坐像なり。長凡一尺。開山開基を詳かにせず。
・観音堂 三間半四方。客殿の前にあり。大悲山の三宇を扁す。正観音、長一尺五寸、立身。往古は人見山にありしを、いつの頃かこの地に遷せりという。古き鰐口あり、径七寸五分、背に当山主当玄雪房乃至法界平等而已とあり。面図のごとし。

(鰐口の図:銘は「武多東郡府中人見郷観音堂。天正八年卯月十八日再造修移奉也。城山田、坪井、久勝、寄進、■■。」と見える。中央に紋がある。くちなし紋か?)






持添新田〈もちぞえしんでん〉: 新開地に開墾したが農民は本村から通いで来る耕地。

府中駅: 甲州街道(甲州道中)の府中宿のこと。

郷庄の唱を伝えず: 上代・中古において××郷、××荘(庄)に属していた、ということが伝わっていないということ。

村北に小丘あり: 人見山のこと。

土性野土: 土質が腐敗植物質を含む黒土であること。←→赤土、礫土

検地の年代等を失えり: 石高検地をいつ行ったか判らなくなっている。

「人見原〜」の古文書は、新曽彦太郎光久という武士の人見原合戦の際の軍忠状である。軍忠状〈ぐんちゅうじょう〉とは、中世日本において、参陣や軍功などを証する書類。

観応〈かんのう〉: 元号の一つで北朝方で使用された。1350年から1352年9月までの期間。9月27日文和に改元。

御開国: 徳川家康の関東移封。(天正18年/1590年)

正保〈しょうほう〉: 元号の一つ。1645年から1648年までの期間。徳川家光のころ。

釆邑〈さいゆう〉: 領地や知行所〈ちぎょうしょ〉のこと。

延宝〈えんぽう〉: 元号の一つ。1673年から1681年までの期間。徳川家綱、徳川綱吉のころ。

今の鉄之助某に至る: つまりは徳川家の御家人・旗本領であったようである。

入会の地: 個人の所有地ではなく、堆肥にする落ち葉を集めたり、薪を取ったりするための共用地。各農村が保有したが、ここでは三村共用。

府中路: 人見街道の別名。

東西凡八町南北六町: 東西八町はいいのだが、南北六町は本文冒頭の「南北十町許」と違っている? 街道沿いの民地についてだろうか?

元文〈げんぶん〉: 元号の一つ。1736年から1740年までの期間。徳川吉宗のころ。

大岡越前守検地す: 冒頭の「検地の年代等を失へり」と矛盾するようであるが? 越前守検地は石高検地ではなく巡視か? 当時、南町奉行から寺社奉行に異動していた。

小野田三郎右衛門御代官所なり: 御家人・旗本が直接施政するのではなく、代官がおかれていた。

高札場〈こうさつば〉: 幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木札に書き、人目をひくよう高く掲げておく場所。

土人: 村人のこと。地元の人。

朔日: 月のはじめの日。一日。

雩祭〈うさい〉: 雩〈あまひき〉。雨乞いの祈り。

境内一段年貢地: 寺社の維持を図るための収入を得るための土地。この場合は境内一帯が年貢地であるとのこと。

扁す: 「扁額」を掲げるという意味で、扁額を掲げた堂の一つであるということか?

幸福寺の山号は大悲山。本堂の参道をはさんで客殿と観音堂が向かい合って建ち、三宇(3つ建物)があったという記述か。
(幸福寺および観音堂は、現在の人見には存在しない。)

観音堂が人見集落に移設されたのは何時か?

武(武州): 武蔵国のこと。

多東郡: 12世紀半ば以降、多摩郡の東部を多東郡と称していた例がある。

天正〈てんしょう〉: 元号の一つ。1573年から1592年までの期間。織田信長、豊臣秀吉のころ。

城山田: この個所、『武蔵名勝図会』を参照すると、「山城国」と読み取るらしい。

■■: 「扱田」のように読めるが、意味不明。

考察

《人見山について》

多磨郡之1では人見山の3つの頂を「浅間山・中山・堂山」としている。(これは『武蔵名勝図会』の内容と同じである。)
ところが、多磨郡之5の人見村の項では、「堂山(人見山)・中山・前山」となっている。
この内容の矛盾はどうしたことだろうか?
現代の浅間山公園案内図や府中市史は、『風土記稿』多磨郡之5の「堂山・中山・前山」を採用している。(なぜそうしたのか?)

多磨郡之1は『武蔵名勝図会』の内容と同じであり、『武蔵名勝図会』では、浅間社は浅間山に、観音堂はもとは堂山にあったとしている。それぞれの場所と名称があり、イメージと しては収まりが良い。

多磨郡之5では、一番の頂は観音堂があったので堂山と呼ばれると述べている。堂山にはもと観音堂があったが現在は浅間社が祀られているとの記述である。浅間社の神体は銅製仏像である。これと観音堂との関係は明記していないが、同じ一尺五寸であることから観音堂本尊と浅間社神体は同一であろうか? 神仏混淆の時代である。
本地垂迹説では、浅間大神の本地仏は大日如来、木花佐久夜比命〈このはなさくやひめ〉の本地仏は阿弥陀如来であるのが一般のようだが、この人見山の場合は中山から正観音像が出てしまっているので、祭神は木花佐久夜比命、神体は正観音像、正観音を安置するために観音堂ということになっている。そうしてみると、富士山を望める場所での浅間信仰と、泉から銅像が出たことによる観音信仰がどこかの時に融合したのかもしれない。
人見山における浅間信仰の発生。人見山上での浅間神社の祠建立。中山の泉からの仏像発見。人見山上での観音堂建立(その場所は?)。観音堂の麓への移設。…これらの順序・時期はどうだったのだろうか。


《人見氏について》

「観応の頃は原野にして…」 戦場であったことを根拠に、観応年間は原野であったと結論しているが、強引ではないか?
『武蔵名勝図会』では、鎌倉時代末までに人見氏が住み着き屋敷を構えていたように記述しており、大きく見解が異なる。

「上屋敷・下屋敷」について、『武蔵名勝図会』では人見氏の館跡との伝承を伝えているが、『風土記稿』」は小名の呼称があることのみ伝えている。昌平坂学問所地理局による公的事業のためだろうか? 
結局『風土記稿』多磨郡の部分では人見氏の存在についてまったく言及されない。

現在の浅間山には「人見四郎墓跡」が伝承される場所が前山尾根上にあるが、『新編武蔵風土記稿』でも『武蔵名勝図会』でも「人見四郎墓」についてまったく言及が無いことに注意したい。


《『新編武蔵風土記稿』の編纂体制について》

『新編武蔵風土記稿』にも『武蔵名勝図会』にも植田孟縉が中心的に関わっているはずなのに、この相違はどうしたことだろう?
多磨郡之1は『武蔵名勝図会』と同じ内容であることから、植田孟縉の執筆なのだろう。
多磨郡之5は他者の執筆で、資料も別なのだろうか。
『新編武蔵風土記稿』の中でさえ内容に矛盾が生じるとは、どのような編纂体制であったのか?



→『武蔵名勝図会』にはどのように書いてあるか?
武蔵名勝図会 人見村・人見山(東京都府中市の浅間山)についてのメモ

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