植田孟縉(もうしん)(1757〜1843)は江戸時代の文化・文政・天保期の地誌編纂事業に活躍した人です。
地誌とは、ある地域について諸要素(自然・地形・気候・人口・交通・産業・歴史・文化など)を考慮のうえ、その地域性を論じた書籍です。郷土の歴史&地理本という感じでしょうか。
植田孟縉は、武蔵国(現東京都)八王子にいた幕府の《八王子千人同心》の一員でした。
《八王子千人同心》というのは、徳川幕府としては珍しい制度ですが、半農半士の在郷戦闘部隊でした。それが八王子に駐屯生活していたのですが、太平の世にあって任務が変化し、徳川家霊廟のある日光勤番(火の番)がおもな仕事となりました。八王子から日光まで交替で赴き、日光の町と東照宮の警備に当たったのです。
孟縉はその中の一隊の組頭でした。
文化年間に幕府は全国の地誌作成にとりかかり、八王子千人同心の適任者に武蔵国多摩地方の地誌を調査することが命じられました。
孟縉は同心勤務のかたわら学問に励んでいましたが、その地誌調査メンバーに選ばれたのです。このとき孟縉はすでに58歳でした。
孟縉たちは調査のため多摩地方をくまなく歩き、社寺の由来や古文書、旧家の系図、山川村々の古い言い伝えなどをたんねんに調べて回りました。これは文字通り調べて〈歩いた〉のです。
孟縉たちの調査は多摩郡をはじめ、さらに高麗郡・秩父郡(現埼玉県)にも及びました。
こうして武蔵国各郡の調査のうえ作成されたのが『新編武蔵国風土記稿』です。文政7年に調査着手し、天保元年に昌平坂学問所に納めたということですから、20年ほどもかかったことになります。
孟縉はこのうちの多摩郡・高麗郡・秩父郡の地誌の調査・編集作業の中心でした。
孟縉はこの公的な地誌作成の一方で、自分なりの見地から多摩地方の地誌を取りまとめました。それが『武蔵名勝図会』です。「図会」という名前からもうかがえるように、これは本文記述と併せて豊富な挿絵を用いた、今日的に言えば〈ビジュアル〉な書でした。
当時は民間でも『都名所図会』をはじめとして、『江戸名所図会』などの地誌出版が続き、またシリーズものの風景浮世絵も出版され、まさにビジュアル本の時代でした。
そのような中で孟縉も、地誌捜索の欲求がわき起こったのでしょう。
もちろん若い頃から学問を積んだ孟縉の著述は、挿絵をおいたとしても、詳しくよく調べられた高いレベルのものでありました。
ひきつづき孟縉は精力的に、日光勤番の知見をもとに『日光山志』、さらに徳川光圀編纂書を補うように『鎌倉攬勝考』を書き上げました。
これら『武蔵名勝図会』『日光山志』『鎌倉攬勝考』は、孟縉の業績を代表する《地誌三書》です。
『鎌倉攬勝考』完成が文政12年(1829)ですから、孟縉は73歳にもなっていました。
ただし《地誌三書》のうち本として出版されたのは『日光山志』だけでした。それも孟縉が81歳になってやっとです。江戸時代に出版というのは簡単なことではなかったのですね。
しかし幕府に納められた《地誌三書》が書き写されるなどして多くの学者に参照され、また明治以降には本として刊行されるようにもなって、重要な基礎資料として参照されていきました。
多摩地方の「○○市の歴史」を調べ編集しようとするとき、『新編武蔵国風土記稿』『武蔵名勝図会』は必ず参照されるでしょう。
それから、日光や鎌倉のガイドブックも順に遡っていけば『日光山志』『鎌倉攬勝考』が元本ということになるそうです。
私たちのふるさとの昔の姿がどんなだったのだろう、今日あることの元はどうだったのだろうと調べるときに、孟縉が残した仕事がその道標になってくれるのです。
孟縉は天保14年(1843)に87歳で亡くなりました。これは江戸時代の人としては大変な長寿だったと言えます。
そのおもな活躍が60歳ちかくからだったことを考えると、自分の長寿と才能を最高に活かし切った生涯だったと思いませんか。後半生になってから日本全国地図を測量・作成した伊能忠敬の業績も連想されます。
〈ビジュアル〉と〈長寿〉という今日的なキーワードを持った人物として、現代に強いエールを送っている偉人の一人だと思います。
(上記の孟縉の年齢は〈数え年〉です。)
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