歴史index 江戸 植田孟縉   2014.2.7
『植田孟縉〜雲は夢見る、世に事なきを』馬場喜信著を読んでのメモ
冨田悦哉
植田孟縉自身についての資料は大変少ない。が、馬場喜信氏は丁寧な考証で植田孟縉 の足跡を描き出してくれている。
おかげで植田孟縉への理解が深まり、誤認を修正することができた。
 
  これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。
資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。
引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。

江戸時代の年月日は旧暦である。
植田孟縉の年齢は〈数え年〉とした。


 

・序章 「植田孟縉先生之碑」を読む
・第一章 江戸吉田藩邸 生誕から青春の日々まで
・第二章 一九歳の転機 江戸から八王子へ
・第三章 八王子千人同心
・第四章 組頭植田家 八王子千人町に生きる
・第五章 植田十兵衛元紳 組頭としての日々
・第六章 〈学問吟味〉を受けるまで 安永から天明をへて寛政へ
・第七章 日光勤番 地誌への開眼
・第八章 「御内意申上候書付」 《寛政の改革》と植田十兵衛
・第九章 『新編武蔵国風土記稿』 地誌の世界へ
・第一〇章 『武蔵名勝図会』 在地世界へのまなざし
・第一一章 『日光山志』 広がる孟縉の世界
・第一二章 『鎌倉攬勝考』 もう一つの達成
・終章 晩年の孟縉 詩あり、孟縉逝く
・あとがき
 
  メモ

  

  『植田孟縉〜雲は夢見る、世に事なきを』

  馬場喜信(ばばよしのぶ)著 

  かたくら書店新書52 

  2011年11月1日発行 

  ISBN 4-906237-52-5

 




図書館から借りて読んでいるうちに、かたくら書店さんへ連絡が通じて、購入できることになった。
良い本が入手でき、嬉しい。


こういう貴重な本は、多摩地域各市の図書館に備えてもらいたいです。







★孟縉の地誌の挿絵をリメイクして見せてくれているサイトがあります。
安藤勇さんのWebギャラリー
「江戸時代の隠れた名画たち」




 

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表紙の言葉〜橋本豊治(はしもととよじ)
この地を護る千人同心の一員として、先人達が守続けてきた山川草木悉皆神性と仏性への思いを
調べ、記録に尽力した姿に感銘
 

表紙絵の作者の言葉

序章 「植田孟縉先生之碑」を読む

「玄孫訓元」とあるが、正しくは曾孫である

この飫肥藩に出仕したという太郎家兼が、熊本氏を称した初代ではなかろうか。
・・・丹治比氏の子孫は先ずはこの熊本の地に落ち着き、・・・それまでの住地であった熊本をもって姓としたと推測される。

家兼は、武芸ではなく、この字の本意である「筮占」「卜筮」をもって仕えたのではないだろうか。・・・そうした家職的専門の技量が、・・・医官として仕える道を開いたのではないかと推測したい。

・・・医術をもって立とうと決意して・・・名藩吉田藩の侍医に就くまでになり、・・・

(孟縉への頌詩の和文訳)
生きとし生ける者はいつの日にかこの世を離れ、
死しては世に銘を刻み奥深い幽界へとおもむく。
人は何をもって考となし信となすのか、
遺編は何をもって長く世に伝わるのか。
八王子の古城に木々はこんもりと茂り、
浅川は城山をめぐって青い帯のようだ。
風は爽やかに、月はあくまでも白く、
天には雲が湧き、地には水が流れる。
翁よ、あなたは大きく立派な人だった。
あなたの遊歴は神のように広大だった。

この「按状」の具体的な内容とその所在について知りたい気持ちが募るのだが、・・・

孟縉もまた父からそれ(熊本氏の歴伝)を受け継ぎ、篋底深く持ち伝えていたのであったろう。それは幼くして父を亡くした孟縉にとってその後の長い生涯の日々を支えるほどの意味があったのではないだろうか。

あるいはこの名(孟縉)は、孟縉がまだ幼い頃に逝ってしまった父自庵その人によるものではなかっただろうか。・・・わが子にはあえてまったく別様の文字を用いて、孟縉と命名したのであった。

十兵衛という名は、・・・植田家の当主が襲名してきた、植田氏嫡男の通称である。

元紳という名も、・・・植田家代々の系譜に受け継がれてきた「元」を通字とする世俗の名である。
・・・「紳」は「縉」とほぼ同義で、高位高官の人、あるいは教養があり人格の高い人をいう。・・・植田家の将来を託したのである。

・・・字を、君夏と称した。・・・ある強固な決意が秘められているかのようである。眼前に繰り広げられる日常の世界を立派に生き抜き、道徳的に非の打ち所のない、いわば儒教的な現実主義者の顔といったらよいであろうか。

雲夢斎とは、これはまたなんと人の夢想を誘ってやまない、叙情的な号であることか。

そして無事庵。・・・穏やかに満ち足りた老翁の姿である。

植 田孟縉は、千人同心組頭という実際世界の職務を精一杯生きるとともに、心にはいつも天と地にひそむ遙かなものへの憧れをいだきつづけて、それを地誌著作という形へと結晶させた人であった。人は誰でもこうした現実と夢想のふたつの世界を生きるであろうが、西暦一八〇〇年前後という日本の近代前夜のひととき、その両者を過不足なく充たして八三年という長く豊かな生涯を送った孟縉は、人としての先覚者でもあった。

 

碑文内容は『武蔵名勝図会』(慶友社版)巻末解説でも読むことができる。






地名を苗字とするところ、納得できる。




部将というのは結構占いだの祈祷だのに依ったらしい。



ここまで吉田藩侍医熊本氏の系譜である。

侍医は藩から扶持をもらっても武士ではない。


植田孟縉の生没年
生:宝暦7年(1757)12月8日
没:天保14年(1843)12月14日
(「略年譜」八王子知新会編による)













按状:書かれたものを調べ考えて、順序よく並べる。

碑文撰者の重野安繹が目にしたであろう資料を見てみたい。
空襲の被害が無ければ…




ユニークな説だが、馬場氏の思いが勝ちすぎているように思う。
碑文には幼名も無いが、元紳も無いのだし。






元紳という名は元政が与えたのか? 二人で相談して決めたのか?

「孟縉」は元→孟、紳→縉という対応で決められたのではないだろうか?








いろいろな名前を持っていたのだな。現代人のペンネーム、ハンドルネームも似たようなものか。





孟縉の知的欲求は現代人とも変わらない。どう生き何を為したのか、以下に見ていく。




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第一章 江戸吉田藩邸 生誕から青春の日々まで

吉田藩とは三河国(愛知県)吉田にあった譜代の中藩で、その江戸藩邸は、孟縉生誕の当時、江戸城西の丸下の通称大名小路の一画、鍛冶橋内と称される地にあった。

長屋は・・・外部から藩邸内部の動静を決して窺わせず、藩邸全体をきわめて閉鎖的な空間のなかに包み込んでいた。

写真家フェリックス・ベアトの「愛宕山から見た江戸のパノラマ」という作品(東京都写真美術館蔵)

松平大河原氏・・・初めて大名に取り立てられた松平信綱を祖としている。
「知恵伊豆」
平林寺・・・菩提寺・・・後に武蔵野の野火止に移転

松平信明・・・老中に就任し、松平定信の《寛政の改革》を助けて、定信の辞職後もその改革を進めている。
信明は孟縉と同時代を生きた人物で、孟縉より七歳年下であった。幼少時には、同じ藩邸内に住む藩医の子熊本孟縉と言葉を交わすこともあっただろう。

孟縉は幼い時期から幼いなりに武家政治の一端にふれることのできる環境にあった。・・・孟縉が身に引きつけてさまざまな思念を巡らす機縁となったことと思われる。

藩医の子には、孟縉の場合がそうであったかは分からないが、家督前の幼年期や修行中には部屋住料が給せられ、成業に就きあるいは家督を継げば本録が給せられたという。

自 庵は独礼によって藩主の御目見得をうけ、儒者に次ぐ俸禄、それも医師としては最高の一三人扶持を受けていたと推測される。・・・侍医としての自庵の日々はかなり晴れ晴れとして振る舞うことのできる毎日であったことと思われる。・・・この父がかもしだす空気はおのずと長子孟縉にも伸びやかな日常の気分をもたらしていたことであろう。

「孟縉幼喪父」・・・「〔礼記〕に、人生まれて十年を幼と曰ふ」

前任の侍医の遺児として、中途半端なままに藩邸内に過ごすこととなった。・・・粗末な扱いをされたことはなかったはずである。・・・しかし、かなり肩身の狭い思いのする日々であったのではないだろうか。・・・医師は、身分ではなく職分であるから、幼くして父を亡くし、子が未だその職分を果たせない場合には、父のもっていた格式も、父が築いた地位も威信も、しだいにその子の背から消えていったと推測しないわけにはゆかない。

福田某氏とは・・・おそらくは儒者としてささやかなりとも家塾を開き、好学の子弟を集めてその教育に打ち込んでいた熱意の人だった・・・

・・・漢学・和学さまざまな典籍にふれることもできたであろう。・・・福田某氏のもとに集う同年輩の塾生たちに出会い、知識欲を共有する友人として交遊することの悦びも知ったはずである。人々が格式や礼法に縛られることなく共に学び語り合うことのできる自由闊達の世界がそこにはあった。・・・

 













この写真を見せてくれるサイトはいくつかあるが、例えば→これ



宝暦7年(1757)12月8日、孟縉は吉田藩侍医熊本自庵の子として生まれる。
母は松平昌成のむすめ。
吉田藩邸に住んだ。






若君と侍医遺子の交流というのはあったのだろうか?藩邸の中でも住む場所が違うのでは?


藩邸に住んでも武士ではない。後に千人同心になっても基本的に百姓の微妙な身分。これが孟縉に付いた運命だったのだろうか・・・













父の死は、孟縉10歳までのことと思われる。



粗末な扱いではなかったとしても、〈身分〉のしばりは厳然としてあったのだろう。








詳しく伝わっていないのが残念だが、もっぱら「福田先生」だったのだろうか。




 

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第二章 一九歳の転機 江戸から八王子へ

行人坂の火事・・・深川蛤町の下屋敷が疎開先になったであろう。そこは隅田川の向こう、永代橋を渡った対岸にあたる。

・・・孟縉が、誕生以来過ごしてきた吉田藩邸における生活に終止符を打ち、新しい天地を求めて江戸を離れた安永四年という年は、こうした混乱のさなかにあった。

・・・藩邸を出るということは、藩医という父親譲りの職分からきっぱりと身を切り離すことでもあった。

さまざまな事情が推測される。・・・
@孟縉の父熊本自庵には医師仲間との広い交流があった
A孟縉が学んだ福田某には儒者同士を結ぶ人脈があった
B孟縉は八王子千人同心への関心を抱く機会があった
C孟縉は江戸を離れた新天地での生活に憧れをもった

『桑都日記』の天明四年五月一三日の記事に、・・・「植田魯石歿す。・・・嘗て医術を崎陽に学び・・・頗る桑都に盛名あり。」と。この植田魯石こそ、植田元政その人である。・・・
・・・植田家の墓石に、「・・・天明四年五月十三日 元政」と刻まれているその没年月日が一致している・・・
・・・魯石を元政の先代と記すものもあるが、これは誤りである。

自庵は自らの早い死を予感したとき、我が子孟縉の将来をこの植田魯石に託したのではなかったか。・・・孟縉が八王子にやって来たずっと以前から元政は孟縉を知り、その資質を見抜いて気にかけていたことであろう。

・・・それでも儒者となることは、武士身分にない若者にとっては、医者と並んで世に出るもう一つの道であった。いったん儒者として世に認められればその出自・身分はほとんど問題にされず、同業者同士の横の付き合いが行われたという。

・・・父熊本自庵が生前において儒者福田某氏と面識を深める機会があり、・・・

(荻生)徂徠の学問のうち経世済民の学を受け継いだ弟子の第一人者といわれる(太宰)春台は、その政治論の主著『経済録』において武士土着論を強く唱えて、・・・

元政はこの頃すでに六十代の半ばを越える高齢にあったから、この時期は植田家にとってもかなり切羽詰まった状況であったと思われる。

・・・そうした風景観察への情熱、景観考証への関心が、江戸を出ることを決意する際の、一つの隠れた契機としてあったことが想像される。

・・・武家出身の母は、実家に戻ったのではないだろうか。

(安藤広重『甲州道中記』)「八王子千人町より、散田村といふあたり、両側建仁寺垣にて、農家至てきれい」・・・実際には千人頭屋敷の連なりであった。

千人同心組頭植田家は、その千人町通りの中ほどから右手に分かれる馬場横町に入り、一〇町ほど行った左側にあった。千人同心ゆかりの寺院宗格院のすぐ手前に接して、同寺の先には千人頭拝領馬場が一段高く築かれた堤上に延びていた。

 









いずれは藩邸を出る決断をしなければならなかっただろう。
もし藩邸に居続けた場合、どんな未来が…?







母の実家をはじめ松平家が養子先を捜したという動きはなかっただろうか?
その場合でも孟縉自身の資質という要素は大きかったろうと思う。





植田魯石=元政については、もうすこし確証がほしいように思う。













身分的に微妙な位置に置かれた孟縉にとって、学問で身を立てることは順当な選択だったのかもしれない。それにしても本人の資質と、周囲の援助は必要だったろうが。










元政に男子が無く、植田家には養子を迎えなければならないという認識があっただろうから、通例ならばもっと早くに他組頭家と養子縁組を決めていてもよさそうだが、そうしなかったのは、あらかじめ孟縉を養子とするつもりがあったから?

未知の風景・世界に自分を投げ入れる勇気が孟縉の未来を開いた。




建仁寺垣:約2m間隔で丸竹の親柱を立て、その間に幅3cm前後の割り竹を縦に密に並べ、要所をしゅろ縄で結んだもの。



馬場:千人同心の武術鍛錬用。長さ140間余、幅4間余、四方に土手築く。

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第三章 八王子千人同心

安永四年(1775)一一月の某日、熊本自庵の遺子孟縉は植田元政の養子となり、名を十兵衛元紳とあらため、養父元政に替わって八王子千人同心組頭の植田家を継ぎ、その職を襲うことになった。

(高橋磌一氏)「斯く整然たる十進式の支配組織を以って統率された例は、数的に不整備不規則を極めた徳川幕府の下に於いて珍しい例と謂えよう」

・・・呼び方としては、千人同心を千人隊、・・・長柄組、御鑓組、千本鑓衆などと・・・

徳川氏は、旧領甲斐国から自らの領国となったばかりの武蔵国八王子に武田氏旧臣を呼び寄せ、新たな処遇として甲斐国との国境を警備する任に就かせたのである。八王子地方は、当時まだ小田原北条氏が滅亡した直後の混乱する状況のさなかにあったから、千人同心は八王子を拠点として周辺一帯にまでわたる治安を維持するという役割をも併せて担ったのであった。

・・・したがって、この土地に在ることにこそ存在の意義があり、・・・十進式の整然たる編成も、そうした戦闘集団に不可欠な軍事規律と指揮系統とを常時維持するために生み出されたと考えてよいであろう。

承応元年(1652)、・・・新しい役目として、・・・「日光火之番」の役に就くことを命じたのだった。

千人頭は将軍に御目見得できる旗本であり、・・・千人同心のなかには入らない別格の地位にあった。・・・組頭をふくむ同心たちは・・・御家人としての身分は、同心としての勤役に就いているときだけのこと・・・とされた。

千人頭家
@下(東)荻原家 A上(西)荻原家 B上(西)窪田家 C上(西)窪田別家
D下(東)窪田家 E下(東)窪田別家 F志村家 G原家 H中村家 I河野家
J山本家 K石坂家

千人頭家の婚姻は、そのほとんどすべてが身分として同格の千人頭家同士の間で行われたが、養子縁組もまたそうであった。・・・組頭家においても、・・・組頭家同士がたがいの婚姻や養子縁組の対象とされ、・・・

植田家に迎えられた孟縉、元紳の場合が、いかに異例の出来事であったか・・・植田元政の深慮の末の決断とそれに応えた熊本孟縉の果断な決意とが、それを為したのであった。

・・・千人頭は、・・・一般の旗本と同じような知行取りで、・・・知行高は二〇〇石から五〇〇石までであった。・・・組頭をふくむ同心は・・・幕府から俸禄として蔵米(切米)と扶持米が支給された。・・・組頭は蔵米を三〇俵以上を、平同心は一〇俵から二七俵を、また扶持米はすべての組頭・平同心ともに一律に一人扶持を、それぞれ支給されていた。
30俵×3斗5升=9石5斗  1人扶持=1人5合×1年間日数

・・・千人町の屋敷地は、・・・千人頭の場合は幕府からの拝領地だったが、同心の組屋敷は年貢免除の、いわゆる除地の扱いであった。

寛政年中(1789〜1801)『甲州道中分間延絵図』
寛政元年(1789)「八王子千人町拝領屋敷図」

組屋敷は間口がほぼ均等に狭いだけでなく、奥行きも千人頭屋敷の半分ほどしかない。・・・一区画五〇〇坪ほどであろう。・・・組頭家といえどもとくに屋敷地が広いというわけではなかった。

・・・植田家屋敷・・・間口は約一〇間、奥行は五五間ほどだが、・・・五〇〇坪程度であろう。・・・江戸の武家地に置いてみれば、・・・旗本屋敷地のそれに匹敵するものである。

・・・千人町には八王子千人同心一〇〇〇人のうちの一割強ほどしか住んでいなかったことになる。・・・組頭家といえども・・・その四分の一でしかなかった。・・・多くの同心は、・・・いわゆる在村同心であった。
・・・現八王子市域の旧六四ヶ村に・・・七四パーセント・・・

・・・武蔵国の多摩郡を中心に同国の入間郡・高麗郡・橘樹郡、また相模国で津久井郡・高座郡という・・・広く分布していた。・・・時代をへるにしたがいしだいにその居住地を拡散していった・・・さまざまな社会・経済の激動をうけて家系の存続が断たれ、あるいは・・・同心株の売買が盛んになされて家の交替が起こるなど、江戸後半期における千人同心の、変容した在り方を象徴するものでもあった。

・・・同心たちは日光勤番などの勤役に出向くときのほか、・・・農業にも、そのほかの農間の余業にも、精を出すことができた。・・・とりわけ組頭家の人々にとっては、それぞれ独自に社会的・文化的な活動を行ううえでの社会的条件ともなったのである。

 





安永4年(1775)11月、植田元政の養子となった。
孟縉19歳。
千人同心組頭の家を継ぐ。









当時は八王子城の苛烈な落城の直後。隣国甲斐は〈他国〉であった。在地兵を置き臨戦態勢を必要とする状況があった。


















こういう〈中途半端な身分〉は江戸時代にめずらしいのではないだろうか。
なぜ在地の〈御家人〉ではなかったのだろう。
武田氏旧臣であった千人頭の〈手勢〉であったから?
類例は?⇔郷士













孟縉本人の資質だけでは、この例外事を実現するにはやや不足なような気がする。権威のある仲介者がいたのではないか?




よく「奉行所同心30俵2人扶持」などと、貧乏同心の代名詞になっている。
すると組頭でさえ貧乏同心なみ? 平同心は農業をしなければ生活が成り立たない前提であろうか。

蔵米は家禄(基本給)の部分。扶持米は主として下級武士に蔵米の他に与えられた。いわば家族手当といったところであるが、もちろん家来の人数も加算される。

除地:領主から租税を免除された土地。





500坪=1650u
ただ住むだけには広すぎる?
屋敷の奥に畑を作ったりはしなかったのだろうか。

孟縉は畑仕事はしなかったのか?

「植田家は比較的裕福だった」と何かにあったような気がしたが、なぜ裕福か?
魯石が医師をしていたからか?




 

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第四章 組頭植田家 八王子千人町に生きる

都立小金井公園「江戸東京たてもの園」にある「八王子千人同心組頭の家」
もと組頭塩野家の屋敷

文政二年(1819)筆録「千人同心 旧家 組頭 同心姓名書」
植田家・・・「天正年中より引続代々組頭役勤来候家筋」・・・創設時以来

植田家の所属は山本組(寛政四年から「庚組」と称する)

・・・「姓名書」が筆録された文政期までのおよそ一世紀半のあいだに半数近い組頭家が断絶し交替したことになる・・・

植田家墓誌から
  宗雲院高山儀忠居士 元和四年三月十八日 元興
  ・・・
  高雲院覚浄湛然居士 安永五年八月十四日   元重 (1776)A
  玉相院実学貞参大姉 明和二年六月廿四日   仝妻 (1765)@
  直心院操顔松貞大姉 文化五年五月廿二日   仝妻 (1808)D・・・(元重の後妻)
  長泉院仙慶良翁居士 天明四年五月十三日   元政 (1784)B
  善徳院覚窓智円大姉 文化十一年九月十六日  仝妻 (1814)E
  雲夢院賢明哲叟居士 天保十四年十二月十四日 孟縉(1843)I
  湯雲院容顔妙奇大姉 文政四年十二月十四日  妻  (1821)G
  庵童女        寛政十一年十二月十九日 女佐野(1799)C
  覚心院仁享道徴居士 文化十四年二月十一日  男元謨 (1817)F
  長昌院仁応了儀居士 明治四年八月八日    資元
  青樹院花月妙林大姉 明治三年三月二日    妻留馬 (1871)
  玄珠童子        天保十三年八月二日   男彌門太(1842)H
  重伝院三要一玄居士 明治二十年七月十七日 治良 ・・・(資元の婿養子)
  正覚院観光知宝大姉 
     明治廿二年九月上院 嗣子 植田訓元 ・・・(治良の子)

孟縉はこの祖父(元重)を看取り、植田家に入ってはじめてのその葬儀を、植田家の当主として取り仕切ることになったのではないだろうか。

元重後妻、元政妻(義母)とは長く暮らした。
子、孫の早世があった。
元謨、資元のほかに女子三人があり、他家へ嫁いだ。次女が嫁いだ先を峯尾家といい、後にそこから明治の憲政家尾崎行雄が出ている。

魯石(元政)
医術修得のために長崎に留学したのが二十歳前後の青年時代・・・
高尾山の主稜尾根先端部の沢から水を引いて人工の滝を造り、高尾山に寄進した。
記念碑「清滝開創の碑」宝暦五年(1755) さらに清滝口に石造不動明王立像
・・・壮年の働き盛りにあって心身ともに充溢し、自由闊達に行動している魯石の姿が彷彿としてくる。
・・・孟縉が・・・この人物に出会ったのは、・・・魯石がさらに歳を重ねた六〇歳前後のことであった。いっそう円熟味を増した魯石の風貌は、若い孟縉を強く惹きつけたことであろう。

 





→江戸東京たてもの園「八王子千人同心組頭の家」

























































かなり活発な人だったのだろう。
植田家において孟縉の学問活動が可能な家風ができていたと思われる。



 

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第五章 植田十兵衛元紳 組頭としての日々

@『八王子千人同心史料 河野家文書』村上直編、雄山閣
A『江戸幕府千人同心史料』村上直編、文献出版
B『八王子千人同心史 資料編T・U』八王子市教育委員会
C『八王子千人同心関係史料集第一集〜第四集 千人頭月番日記(一)〜(四)』八王子市教育委員会
D「八王子千人同心組頭月番日記T」(『八王子の歴史と文化』第7号)

・・・第二次世界大戦が終結する直前の昭和二〇年八月一日夜、アメリカ空軍機による空襲によって八王子の中心市街地から千人町へとつづく街並みのほとんど全域が焼失し、それまで千人頭の後裔各家に所蔵されていたであろう古文書もこのときそのほとんどが失われたであろう・・・

組頭がどのような職務に携わっていたのか・・・
「定書」
  千人頭への定例の挨拶
  月番組頭の役割
    月番頭役宅(月番所)での実務(朝五ツ時(午前八時)より夕七ツ時(午後四時)まで
  扶持米
  組頭出府
  武術検分

  日光勤番
  出立前準備
  出立時仕来り
  道中心得
  途中の川俣宿や今市の蔵への挨拶
  日光勤番の勤め方

「年中行事帳」

決まり切った日常業務をいかにこなすかは、いつの世においても、その人の努力のうちである。・・・組頭とは、いわばこの中間管理職の立場といってよいだろう。・・・

組頭として月番制で処理する実務量に比べ、より多くの時間と労力が費やされたのが、・・・日光勤番であった。・・・慶安五年(1652)に始まった。

孟縉がこれだけ浩瀚かつ精細な著作を成し遂げえたのは、組頭という職務には相応な時間のゆとりがあったからだと推測してもよいであろう。そうしたゆとりの時間をいかに過ごすかは、もちろん人それぞれである。孟縉は、それを学問と著作に注ぎ込んだ。孟縉は恵まれた才能を生かし、寸暇を惜しんで努力し、加えて当時には稀なほどの高齢に恵まれたのである。そうした著作者として大成してゆく大きな契機が日光勤番であった・・・

孟縉も、千人同心の一員という閉ざされた身分社会の日常から脱けだして、 時には文人として、時には画家として、別の名をもって生きた。号とは、したがって、江戸時代を生きる人々が、繰り返される通常の職務から解き放たれ、日常の世界から抜け出して、人それぞれの時間を生きるための知恵であり、回路であったということができるであろう。

 















たいへん惜しいことです。
孟縉は日記をつけていただろうか?







〈挨拶〉とは言うが、人員点呼のような意味合いもあったのでは?
組として一堂に会することはなかったのだろうか?

武術検分は組ごとに行ったのだろうか?





















千人同心の日常実務は、組頭がほぼ担っていたと思われる。








浩瀚:書物の多くあるさま。書物の巻数やページ数の多いさま。






号:かつては文士が書画を創作発表する際に使用された。現代ではペンネーム。好んで用いた字句に、道人・散人・山人・野人・居士・逸士・処士・隠士・迂士・逸民・外史・仙史・樵客・山樵・漁夫・漁叟など隠逸志向がみられる。また居宅や書斎の名に仮託して堂・斎・室・館・閣など。

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第六章 〈学問吟味〉を受けるまで 安永から天明をへて寛政へ

寛政四年(1792)「九月十月の交、千人隊什長塩埜周蔵、植田十兵衛、文学の試を大成殿に受く。」
元紳三六歳

文学の試とは、《寛政の改革》にともない幕府によって実施された文武奨励策のうちの、いわゆる「学問吟味」のことである。・・・学問に精進させることによって弛緩しつつあった武士の気風を正そうという趣旨であった。吟味の内容は、「小学・四書・五経・歴史論」で、口頭試験と筆記試験が行われた。

塩野周蔵(原組(癸組))・・・塩野適齋の養父

寛政五年五月二一日「千人頭、塩埜周蔵光迪、植田十兵衛元紳に命じ経典を直月の隊長の邸に講釈す。・・・嗚呼、惜しい哉。聴者倦みて欠伸し、或は頣を垂れて睡る。・・・数年ならずして遂に廃す。」

寛政六年(1794)塩野周蔵とともに再度の学問吟味を受けることになった・・・二月二五日のこと

千人同心で学問吟味を受験した人についてみると、寛政九年に組頭見習の河西祐助(塩野適齋の実兄)がいるだけである。・・・元紳は、学識に優れた数少ない人材として、この頃すでに組頭のなかで際だっていたのである。・・・かつて江戸においては福田某氏に就いて学び、八王子に移って組頭となってからも自学自習で学問をつづけていただろう孟縉・植田元紳の、日々の精進ぶりが窺える。

安永・天明・寛政期の動向
国内矛盾と対外的危機が激化した時代である。・・・幕藩制国家と社会の動揺・行詰まりが明確な姿をもって現れた。・・・欧米諸国の圧力が東アジア世界に及び、・・・既存の対外的秩序の動揺・行詰まりもまた明確になった。

安永六年(1777)「苗字一件」・・・八王子一五宿内に居住する一四人の千人同心が宗門人別帳に苗字を記載したことに対し、名主たちが異議を申し立てて争論となったものである。・・・平常は百姓である千人同心も苗字を記すべきではない・・・千人同心はふだんは百姓身分で、千人同心としての任務についているときだけ武士身分であることが明確にされた・・・千人同心は自らを武士とする矜持を後々までもちつづけており、こうした身分にかかわる問題は、これ以後も長く尾を引くことになる。

天明元年(1781)「六箇条七隊一件」・・・千人頭七人が、組頭職を廃止して平同心と同列にするなど六ヶ条の命を配下七隊の組頭に伝えたことから、七隊の組頭とのあいだに争いが起きた事件である。・・・このような急変革の難題を持ち出してきたことは・・・支配関係のゆらぎが進んでいたことを物語っていよう。・・・組頭の反発は激しく、鑓奉行への直訴や七隊の組頭七〇人全員の連署による上訴までを行った。・・・結果、組頭職は存続となったが、一方では処罰もなされ、・・・元紳は・・・連署による上訴が行われた際にはそれに名を連ねたであろうが、・・・冷静にことの成り行きを見守っていたように思われる。・・・一方・・・後の『桑都日記』は「之を先人の言に聞く、曰く、嗚呼、甚しい哉。千人隊の大弊、天正以降、魚水の交際、この時や、寇讎の如し。亦傷ましからずや」と悲憤慷慨している。・・・この二人(孟縉・適齋)の、対照的な性格が垣間見られるようである。

 





寛政4年(1792)学問吟味を受ける。
孟縉36歳。

大成殿:湯島聖堂(孔子廟)の中心の建物は「大成殿」と名付けられていた。徳川綱吉による扁額が掲げられていた。ここでは昌平坂学問所のこと。















寛政6年(1794)再び学問吟味を受ける。
孟縉38歳。




















宗門人別帳は百姓が記名するものだった。千人同心は百姓身分とされたから、そこに記帳するのだが、自分は武士であるという矜持から苗字を記す者がいた。しかしこれは村民から嫌われること であった。






千人同心の日常実務は組頭が担っていたようなので、この組織改正の動きは無茶だったのではないか。





 

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第七章 日光勤番 地誌への開眼

関東平野の西端部をその南の一角から北方へと貫いて走る・・・日光往還あるいは日光脇往還、または八王子千人同心道・・・「日光火之番」への往復に通行した道だった。・・・千人同心の往来は都合一〇三〇回に及んだという。

(往路)八王子→拝島→箱根ヶ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→川俣→館林→佐野→富田→栃木→合戦場→金崎→楡木→鹿沼→文挟→今市→日光
(帰路)今市→板橋→鹿沼→奈佐原→金崎 および 館林→新郷→行田
往復はいずれも二一次、三泊四日の行程だった。(往路)扇町屋昼食、坂戸泊、行田昼食、佐野泊、栃木昼食、鹿沼泊、今市昼食
全長四〇里、途中の船渡しは八ヶ所、徒歩渡しは二ヶ所、橋は五九間があったという。
・・・元紳は、一四回にわたって往返したのである。

安永七年(1778)から寛政三年(1791)三月までの・・・山本組の勤番総回数は一七回、そのうち元紳の出役は・・・(順番制による)単純計算によれば九回ほどしかなかったことになる。・・・生涯における勤番一四回という回数は、元紳自身の意思が働いてはじめて実現されたと考えるのが妥当であろう。・・・この数字が元紳の日光勤番にかけた意欲の強さと、日光への関心の深さを物語っている。・・・他に代え難い歴史地理体験であったことと思われる。

・・・往路・帰路ともに四日をかけて往返したその途次もまた、元紳の関心を惹きつけてやまない自然と人文の景物に充ちていた。

火之番屋敷が二ヶ所あった。・・・鉢石町番所・・・馬町番所・・・後に《寛政の改革》で・・・馬町一ヶ所となる。・・・火の見櫓は『日光山志』の挿絵にも描かれており、その形姿はなかなか立派だ。

「於日光心得之事」「御下知状左之通」

・・・山内見回り・・・「平日見廻之事」・・・四ツ廻りと八ツ廻り・・・組頭は丸羽織・裾細・・・陽明門の門前までしか行けなかったのである。

・・・『武蔵名勝図会』の着想は、その何回目かの旅路において、心に浮かんだものではなかったか。

日光勤番の日々における収穫については、今日日光についての基本的・標準的な地誌として評価が定まっている『日光山志』の存在によって明らかである。

 



















孟縉の日光勤番が14回ということは「植田孟縉先生之碑」碑文にある。




孟縉が組頭だった期間の山本組の日光勤番は17回。ここで通常の順番ルールで単純計算すれば、孟縉の勤番は9回ほどしかない。しかし14回も行ったとすると、孟縉はすすんで日光勤番に参加したと考えられる。

















四ツ廻りと八ツ廻り:5つの組に分かれて午前10時と午前2時?に時間をずらして出発し、所定の順路を廻っていく。この山内廻りは5日ごと。他に門番、火の見櫓番があった。

丸羽織:どういう羽織か?背割りでないものという意味か?
裾細:踏籠袴(ふんごみばかま)に同じ。野袴の一種。膝(ひざ)から下を細くし動きやすいもの。

陽明門(ようめいもん):日光東照宮の中門。

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第八章 「御内意申上候書付」 《寛政の改革》と植田十兵衛

「打ちこわしが生んだ老中」松平定信

老中メンバー          生没           在職
松平定信(越中守)   1758〜1829 1783〜1793
松平信明(伊豆守)   1763〜1817 1788〜1803、1806〜1817
松平乗完(和泉守)   1752〜1793 1789〜1793
本多忠籌(弾正大弼)1739〜1812 1790〜1798
戸田氏教(采女正)   1754〜1806 1790〜1806

植田十兵衛元紳      1757〜1843

・・・元紳は、・・・これらのメンバーの名に接したとき、・・・ある感慨を抱いたはずである。・・・信明は・・・実父熊本自庵が侍医となって近侍した吉田藩の藩主であった。

《寛政の改革》から四半世紀ほどをへた文化一四年(1817)、「御内意申上候書付」・・・を書いている。・・・寛政期から文化期へかけての千人同心社会の実態を伝える記録として、またその世界の内部に生きた人にしか書きえない批判的な考察として、注目すべき文書であり、それとともに、地誌作品以外にまとまった論述を残していない植田孟縉による社会批評として、見過ごすことのできない唯一の論策でもある。

・・・「内々のご意向にお応え申し上げる意見」の意である。つまり、この「書付」は、幕政を担う側からの内密の要請があり、それに応えて書かれた文書であった。・・・現今の原稿量表示でいえば四〇〇字詰め三〇枚ほどにもなる。・・・元紳の千人同心社会刷新へ籠めた熱情が窺われる。・・・当時は、千人同心が直接に訴える手段として文書を投ずることは厳しく禁じられており、それが発覚して罪に問われた事件も起きていた。

《寛政の改革》における千人同心改正令「松平和泉守殿後渡御書付」
@組頭の「持添抱」を廃止
A組頭の代替わりについて(旧家特待あり)
B在方同心の商行為禁止
C在方同心の相互監視
D優秀な同心の褒賞

植田十兵衛「書付」
一 提出の経緯
二 御番代之事
三 十組明細書之事
四 世話役之者日光在勤着服之事
五 昇進組頭勤年数に随ひ倅見習勤年数に依って組頭役被仰付候事
六 組頭為同道人三奉行所え平服着用罷出候事
七 宿継先触差出候事
八 在々住居組頭平同心之事
九 地方引請人之事
一〇 百姓倅方に組頭同居之事
一一 組頭平同心妻婚儀披露或は御頭様え罷出組屋敷辺吹聴等歩行仕又は年禮等に罷出候節衣服其外之事
一二 婿取嫁取等之節心得之事
一三 組頭身分心得之事
一四 前金貸出候口入組頭之事
  丑十月      植田十兵衛(印)

(注)御扶持方一件と布屋権三郎・・・布屋の扶持米利ざや利益を千人同心が訴えた事件

・・・誰によって諮問され、・・・そもそも実際に提出したのであろうか・・・またなぜ・・・危うい文書が、千人同心社会の内部において保存されてきたのだろうか。
・・・内々の諮問が、当時老中首座にあった松平信明によって直々に植田元紳に対してなされたものと考えればすっきりする。・・・提出」されることはなかったと思われる。「書付」の日付である一〇月の二ヶ月前、八月に、松平信明は他界していたから。・・・植田家の書斎の篋底深くに蔵され、死後にいたるまで陽の目を見ないままに眠っていたと推測される。・・・この「書付」は、「鈴木弘明氏所蔵河野家文書」として伝わってきたものである。・・・どのような事情があったのか。・・・詳らかになしえない。

七の項に、特定の千人頭についての厳しい言及がある。・・・一一では「都鄙すべて驕奢に相成り、世間の風儀にては華美を尽くすものと心得、貴賎の別も無くなりました」と世相を述べ、一三の項には、「近来はすべて金銀に泥み、事あるに随い賄賂に陥り、あるいは配下の者共の少々の手違いも咎め立て、金銀を差し出させる輩もあります」とまでその病弊を指摘している。・・・一四には、同僚である組頭の不正行為とそれに関与した幕閣の一部への批判さえ述べていた。・・・貨幣経済がすべての生活分野へと浸透してゆく時代の流れのなかで生まれた病理現象であり、千人同心社会で起きたこのささやかといえばささやかな事件も、大きな社会経済の動向をそのままに映し出すものであった。時代は幕末の混迷へと進んでいたのである。・・・孟縉は、そうした事態をおのれ自身の目で見つめ、自らを律することに厳しい儒者としての気概を失うことなく、あるがままを記述したのである。

・・・孟縉は、六一歳になっていた。八七歳まで生きたその生涯も、そろそろ晩年を迎えようとしていた。・・・植田孟縉の地誌著作活動は、ちょうどこの頃から活発になってゆく。・・・江戸時代もまた一つ転回して、文化文政期へと入っていた。

 









この部分の西暦は間違いがあったので訂正した。















孟縉は、内命を受けて千人同心の内情について報告書を作成した。

内命は《寛政の改革》による千人同心改正後の実情をさぐるためのものであったか。

徳川幕府は内偵をよく使ったというが、こんなところにも?

孟縉の人物が信頼されていたということなのだろう。

当時は「問題があったら皆で話し合って改善しようよ」という社会ではなかったのだから、こうした形もしかたないだろう。







孟縉による報告書は多項目にわたり、厳しい批評もある。孟縉は自分が属する組織に対してでも、冷静で真摯な観察をしていたようである。

このような内容の報告書を作成し署名することは、強い正義感と勇気が必要であったろう。

























報告書は「丑十月」付けとなっている。寛政以後の丑年は文化年間(1804〜18)に2回あるが、記事内容から文化14年(1817)10月であることが分かるそうである。
孟縉61歳。


報告書は実際には提出されなかった?
もし提出されていたら、後々に記録に残るような騒動が生じていたかもしれない。


報告書が後々他家で保存されてきた経緯は不明。












 

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第九章 『新編武蔵国風土記稿』 地誌の世界へ

・・・それら(関東地方の西・北を仕切る山脈)の先端近く、里の世界から近々と仰がれるところに頭を持ち上げている山が、古来、神霊の宿る山として里人の信仰の対象とされてきた。・・・高尾山や八王子城山は、その典型であった。・・・いずれの山も、その背後につづく尾根によって主山脈へと結ばれていたから、・・・そしていつの頃からか、これらの山脈と河川とが造り出す地域の景観をそれぞれの地の歴史と重ね合わせて総描してみたいという想念に捉えられていたことであろう。それは、『自八王子郷至日光山麓 街道旧蹟考』と題する街道地誌を著していることからも推測される。・・・それをいっそう明確にして地誌著作という方向へと決定づけたのが、江戸幕府によって始められた『新編武蔵国風土記稿』編纂事業への参加であった。

文政九年(1812)二月・・・老中松平信明から千人頭原半左衛門胤敦へ・・・呼び出しがきた。
「武州多摩郡地誌御用之儀に付出府之度昌平坂学問所え罷出候様松平伊豆守殿被仰渡」

文化一一年(1814)六月・・・原は、・・・七名の組頭を地誌捜索の担当者に選任した。
  千人頭山本橘次郎組組頭 植田十兵衛元紳(孟縉)
  千人頭石坂桓兵衛組組頭 秋山喜左衛門定克
  千人頭河野四郎左衛門組組頭 筒井恒藏元恕
  千人頭志村内藏助組組頭 風祭彦右衛門公寛
  千人頭志村内藏助組組頭 八木孫右衛門忠譲
  千人頭原半左衛門組組頭 原 利兵衛胤明
  千人頭原半左衛門組組頭 塩野所左衛門轍(適斎)
「頭支配の組にこだわらずに、学識者を揃えた人選といえよう」
・・・全編が完成するまで一貫してこの事業に携わった植田十兵衛は、その時点での最高齢者であった。・・・主導的な役割を果たしていたであろうことが窺われる。

地誌編集という事業は、江戸幕府にとっての《寛政の改革》以来の懸案であった。・・・先に蝦夷地の警備と開拓を願い出て彼の地へ赴き、のちに松前奉行支配調役をへて千人頭に復帰していた原胤敦が、その間に築きあげた人脈によって指名されたという可能性が・・・(老中松平)信明にとって、孟縉は、・・・なにごとかの場合には信頼をおくことのできる意中の人物であったと思われる。・・・

村々の地誌を尋ねて廻村するので、当該の村役に在村しているように伝え・・・これらの事項についてあらかじめ準備しておくようにと・・・
@神社・仏寺の什物・宝物ならびに古書等の訳
A百姓・旧家で系図・古書等を所持する者
B古城跡・古屋敷等の有無
C地利・山川そのほか村々の古い申し伝え
先触れは、このように地誌捜索を滞りなく進めるための事前の通知であった・・・地誌捜索は、廻村し調査する植田十兵衛たちと、それに応える村の名主たちとの、いわば共同作業として進められていった。

・・・植田十兵衛は、自分はあくまでも松平信明の直々の意向によって担当することになったのだということを確認したかったからだと考えてよいだろう。・・・巡り合わせを幸せとする心情が。・・・

植田十兵衛を一方のリーダーとし、塩野所左衛門と原利兵衛を別の一組とする二つの班が、地域を分けて、同時に、行動に移ったのであった。

文化一一年九月から文化一三年二月まで約一年半にわたって精力的に行われた廻村調査は、この頃に一段落したものと思われる。・・・胤敦が翌文化一四年三月に引退したのも・・・これを一つの契機としたのであろう・・・

・・・いずれにしろ地誌捜索担当者七名のうち、最高齢の植田十兵衛が主導した植田班が武蔵野台地や多摩丘陵一帯そして多摩川下流域という広範な地域の村々を担当し、もっとも若手であった塩野適齋が主となって奥多摩の峻険な山岳地帯の村々を踏査したのである。・・・当初からの目論見であったかと思われる。

・・・名主平家で発見されたもので、『杣保志』と題する、現在の羽村市・青梅市・奥多摩町域を対象とした地誌の稿本である。杣保とは、これらの現市町域である多摩川の上流域を呼ぶ。・・・『多摩郡三田領地誌捜索』という標題をもつ稿本があり・・・植田班の行動範囲がいかに広域に及んでいたか・・・

・・・塩野適齋の表現を借りれば、「行具を促して発す。其の装、箬笠草鞋、人をして紙筆と行具とを負担せし」めて・・・

・・・それぞれに捜索・調査した書留を持ち寄って原半左衛門の屋敷に集まり、校訂を加えたうえで浄書してゆく稿本作成の作業を進めた。・・・

福井保著『江戸幕府編纂物 解説編』
1810成立 久良岐郡(文政一〇年再訂増加)、新座郡(文政一一年再校)
1814草定 荏原郡(文政一〇年改刪)
1816編成 橘樹郡、都筑郡(文政一一年改正)
1820成立 入間郡
1821成立 比企郡
1822進献 多摩郡(文化年中原胤敦編纂)
1822成立 高麗郡(原胤敦起草、原胤広継続)、足立郡
1823成立 横見郡、埼玉郡
1824成立 大里郡、男衾郡、幡羅郡、榛沢郡、那賀郡、児玉郡、加美郡
1825成立 秩父郡(原胤広編集)、葛飾郡
1826成立 豊島郡

・・・多摩郡の部は、全体のなかできわめて初期に属する成稿であり、『風土記稿』全体におけるその後の・・・「千人同心たちの廻村調査が精力的に行われたこと」は「以後の地誌捜索事業全体に先例づくりの役割を果たしたと評価されるのではないだろうか」

文政九年(1826)
故原半左衛門胤敦、原半左衛門胤広、各々白銀十錠を賜はる。
植田十兵衛、八木甚右衛門、塩埜所左衛門、神宮寺豊五郎、河西伊三郎、各々白銀一錠を賜はる。

『新編武蔵国風土記稿』全巻が完成したのは、さらに四年後、天保元年(1830)のことであった。

 





孟縉は自然風景にどのような思いを抱いていたろうか。

江戸市街を離れ、八王子の山々の傍に住んだことは、孟縉の精神にも影響があったのではないか。















文化11年(1814)6月、地誌捜索のメンバーに選ばれた。
孟縉58歳。


























効率よく調査を進めるため、あらかじめ村々に〈先触れ〉を発した。













孟縉が発した先触れ文書に、自分が選任された経緯を確認した形跡がある。





2つの班に分かれて、多摩郡の調査に当たった。















『杣保志』『多摩郡三田領地誌捜索』は孟縉による調査草稿と推測される。

杣保:そまのほ。現在の羽村市・青梅市・奥多摩町域は「杣保」と呼ばれた。杣山とは木材の切り出し、植林の為の山を指す。奈良時代から多摩川下流の国衙造営などに木材を供給してきたのであった。

三田領:ここで言う「三田」とは杣保を本拠地とした三田氏のこと。平将門の後裔を称していた。最盛期には高麗郡・入間郡まで勢力をのばしていたという。

箬笠:笹や竹を編んで作った頭に被る笠。
行具:旅行に必要な諸用具。笈や行李のこと?
「人をして紙筆と行具とを負担せしめて」というと、荷物を運ぶ小者を従えていたのだろうか。
★表紙絵のスキャン画像参照。(↑ページ最初に添付した)







文政5年(1822)、『新編武蔵国風土記稿』多摩郡の部を昌平坂学問所に納める。
孟縉66歳。

天保元年(1830)、『新編武蔵国風土記稿』全巻完成。
孟縉73歳。











白銀一錠:「錠」というので、文政南鐐二朱銀とかだろうか?
二朱銀だとすると1/8両。換算は難しいが1万円前後に相当?

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第一〇章 『武蔵名勝図会』 在地世界へのまなざし

・・・そうした作業のあいだ、孟縉の心には経巡ってきた村々について自分独自の筆で誌してみたいとする欲求が萌し、「風土記」とは異なる別個の表現として叙述したい思いへとしだいに惹きこまれてゆくのを抑えることができなかったのではないだろうか。・・・

『武蔵名勝図会』は、昭和四二年(1967)一月、片山迪夫氏の校訂により初めて活字本として公刊された(慶友社刊)。孟縉の自筆稿本の一部はそれを行方が分からず欠巻となっていたが、同書の刊行直前になって見出され、全一二巻を自筆本によって校訂することができたという。その経緯は、片山氏の同書解説に詳しい。

「凡例」
『風土記稿』が、幕府による官製地誌として当然ながら同一の方針のもとですべての村々を均等に扱い、記述すべき項目を洩らさずに拾い出してゆくのとは対照的な、これは編集方針である。・・・「神社・仏刹もしくは里老の唱え来たれること、妄誕の説なりとも、その伝うるままをあらわして、下にその可否を附せり」は、著者独自の方法であり、ここから後世の読者にとっての『名勝図会』の魅力が生まれてくることになる。
・・・この文政三年九月をもって「多摩郡之部」が完成していたと考えてよいだろう。『風土記稿』多磨郡の部の成稿を仕上げて昌平坂学問所へ納めたのが文政五年四月のことだったから、それよりも二年も前のことであった。

文政五年(1822)七月 冠山源定常(因幡国若桜藩藩主池田定常1767〜1833)が「序」を撰する。
大意・・・「近年、地理書が踵を接し競うように世に出ているのは時運のしからしめるところで、そこに文明の開化を見るべきであろう。自分もかって『地誌備要』『典籍解題』を編輯し、それらの書を歴覧したが、畿内についての書がもっとも詳しく武蔵はこれに次いでいた。しかし武蔵の邦域は広大なのでまだ足らないことも多く、小冊子のようなものでは満足できなかった。かねて植田君夏が著したという『武蔵名勝図会』数巻があると聞いていた。畿内諸国の図会に沿う立派なもので、君夏の学識と文辞をもって、図志にしたがって足らざるはなく、俗に流れていない。近日、君夏がその書を間宮考叔に託して自分に序を求めてきた。自分はこれを一閲し、その体系は部類を分けず便であり、撰述は詳細を究め、考察の根拠も確かである。天の待つありて責備というは、君夏にして果たされたのである。これを序とする。」

定常・・・『武蔵地名考』などの著作もある。
間宮考叔・・・間宮士信のこと。『風土記稿』の編輯責任者。
・・・冠山は、この序文で孟縉のことを一貫して君夏と呼んでいる。君夏は、孟縉が晩年になって用いた号の一つである。・・・一人の儒者として遇し、・・・

・・・『風土記稿』の完成がまだ見通しもつかない時期だったから、その編纂作業の主力の一員として携わっていた植田十兵衛の著作が、たとえ多摩郡に限られたものであったとしても、先行して世に出ることはままならなかったのであろう。

文政六年(1823)一〇月五日 間宮士信(1777〜1841学問所地誌調方出役、旗本)が「跋文」を誌す。
大意・・・「植田君は千人同心組頭の職にあり、講武の閑暇に『武蔵名勝図会』全一二巻を著した。その編成は諸国の名所図会に倣い、巻を披けば江戸西郊の名所古蹟を坐して窮めることができる。筆者の初めの意図は武蔵国全域を網羅することだったが、『江戸名所図会』を編む人があると聞いてこれを止めたという。思うに、名所図会なるものは京に起こり、大和名所図会を見るなど、京畿の諸勝は余さずに誌されてきた。図会が有益であることが知られるにつれ、関西諸国の編が群れを成して生み出されたのである。今ここに、君のこの編が生まれたのは、好古の風がようやく東に及んできたというべきか。自分もかつて命を奉じ興地風土の誌を編輯し、君もまたそのことに与った。よって、ここに一言を寄せ、もってその請に応える。」

・・・だが、仕上がった『江戸名所図会』を見れば明らかなように、・・・やはり「江戸」との関わりが深い圏域内にとどまっており、孟縉が構想した「武蔵」全域にはとうてい及ばない。・・・遠慮することなく『武蔵名勝図会』の執筆を進めてもよかったのである。・・・表題どおりに・・・完成するためには、・・・歳月と努力のなお数倍を要することになるであろう。・・・『名勝図会』の筆を擱いて、兼ねて構想し、日を継いで執筆を進めてきたもう一つの地誌、日光を主題としたその著述に打ち込もうと。

文政六年(1823)一〇月、屋代弘賢(1758〜1841国文学者、幕府右筆)が「跋文」を草する。
一部を漢字表記とし、抜粋・・・「文まつりこと六とせ(文政六年)、大君の御代長月(九月)の頃、植田孟縉わがみたまのふゆの宿にとひ来たり、新玉のとしごろ、おほやけのひまひまにものせしとて、武蔵名勝図会十あまり二まきの草紙をたづさへて、これに一ことをそへてよと乞はる。さて、比の草紙をひらきたれば、この人、国のうちにありとあらゆる名勝古跡はさらなり、はかなき故事に至るまで、鳥の跡もてしるし、その及ばざるところは写し絵もて伝へたれば、いささかも残るくまなく、つばらかにて、目覚むる心地ぞする。そもそもかかる好みある人は、国郡のこと、なにくれと捜る事をしもうけたまはれるは、いともめでたき幸いとぞ覚ゆれ、此ぬしの賢さも思ひ合わされつつ、千早振神な月(一〇月)のはじめの十日、みたまのふゆのやどにして、源弘賢書つく。」

・・・文政六年(1823)一〇月「是の月、植田十兵衛は武蔵名蹤図会を撰し聖堂に納め、白銀五錠を賜はる」

白井哲哉氏はその講演記録「八王子千人同心の地方史研究」(八王子の歴史と文化第一九号)において・・・『風土記稿』と『名勝図会』の内容を対照して検討を加え、結論として、孟縉の「地方史研究」は文献考証をきちんと行う一方で、地元の伝承にも価値を見出す努力をするという「実証史学と民俗学という、今につながるような地方史研究のふたつのスタイルを、それと知らぬ間にやっていたのではないか」と語っている。

多摩川水源のこと
・・・信州のイザルガ嶽に水源を発した多摩川が・・・多摩郡に入る・・・当時といえどもちょっとした地理の知識があれば、すぐにその錯誤に気付いたはずである。・・・実地踏査ができなかったからである。・・・『名勝図会』には多摩川の水源についてもう一つの記述があり、・・・巻一の冒頭、「郡名」についての説明のなかにある。・・・孟縉の頭脳のなかでこの明解に思いいたったのではないか。

光明山・大嶽山・御嶽山と三山駆けのこと
・・・この三山を嶺づたいに駆けて往還する道があり、「三山駆け」と呼ばれていた。大嶽山を三嶽全山の中心の嶽としていたという古来の〈武州御嶽〉時代から伝えられた奥駆けの道であり、紀州吉野の蔵王権現信仰に発した修験道につながる山岳信仰の世界がこの道によって形作られていたのである。・・・武州御嶽信仰史の初源を示唆し、・・・山岳宗教史研究・・・に先鞭をつけた考究といってもよいだろう。

武蔵国府跡・武蔵国分寺跡・東山道武蔵路跡のこと
孟縉は、すでに早くこれらの地に立って、歴史考古学の先駆ともいうべき考察を行っていた。

真慈悲寺跡のこと
孟縉の「真慈悲寺新堂ヶ谷戸」説

人見山のこと
武蔵国造の墳墓としたのは即断に過ぎたとしても、・・・探究心の旺盛さ(山容・土質からの探究)と、得た知見(徳川光圀の下野国車塚発掘という先例)を現地に適用してみようとする意欲の迸りを、そこに見ておきたい。

丹木蔵王権現社の彫像郡のこと
・・・この土地の忘れ去られていた歴史に直接向き合っているのだという感動に充たされていたのではなかっただろうか。

貝殻坂のこと
・・・前三書がいずれも、・・・「古風土記」の・・・「多麻郡に浦あり」を引用しているのに、孟縉はそれをしていない。自らの目を第一としたのであろう。
・・・貝塚についての考古学的考察の濫觴といってもよい記録とすべきである。

本書は、・・・閑暇を活かした「副産物」といわれる。けれども、この言い方は適切ではないだろう。・・・『風土記稿』にはなく、『名勝図会』にのみ見える記事も多く、対象を把握する方法や視角にも、孟縉ならではの創見がある。・・・『風土記稿』と『名勝図会』の共存もまた、両書を対比して見てゆくことによって、対象とする地域についてのより豊かな歴史像をわたしたちに与えてくれるのである。
・・・著者孟縉にとって、著述と画業、地誌と挿絵は、一対のものであった。・・・風景画としての写実性に富むその挿絵は、孟縉がみたままの景観を時空を超えてわたしたちの現前に伝え、当時とは様変わりした現況と対照して捉えることを可能にしてくれている。

 











孟縉自筆とみられる稿本の発見の逸話はドラマチック。








凡例を見ると、孟縉の編集方針が分かり、『新編武蔵国風土記稿』との差異も納得できるような気がする。




































現代でも出版となると色々大変だろうが、江戸時代は一層制約は強かっただろう。
まして公的な『風土記稿』未成の段階で自分の『名勝図会』を先に刊行することは、孟縉の立場ではできなかっただろう。

また、『風土記稿』に比して異説も多く採録している『名勝図会』は刊行が難しかったのではないか。


『江戸名所図会』が主な理由ではないような気がする。
やはり武蔵国全域は無理という合理的判断だったのではないか。

筆を擱く:おく。文章を書き終わる。擱筆(かくひつ)する。



































文政6年(1823)10月、『武蔵名勝図会』を昌平坂学問所に納める。
孟縉67歳。

聖堂:湯島聖堂(孔子廟)のこと。ここでは昌平坂学問所のこと。


凡例における「神社・仏刹もしくは里老の唱え来たれること、妄誕の説なりとも、その伝うるままをあらわして」という地元伝承を尊重する姿勢である。







イザルガ嶽:長野県飯田市と静岡県静岡市の境に位置する。信州の言葉で笊のことを〈イザル〉と呼ぶことが山名の由来らしい。標高2540m。
これが多摩川の源流などと、どうして伝承が?





奥多摩の山歩きでも懐かしいコースである。
大嶽山(大岳山)の山容は遠望でもよく見分けられ、奥多摩のシンボルという感じがする。
★表紙絵のスキャン画像参照。
(↑ページ最初に添付した)






孟縉の時代でも古代の割れ瓦が地表に転がっていたというのに驚き。










孟縉当時の地学知識では、古多摩川による大規模な浸食作用は想像もつかなかったろうが、土質の違いを不自然なものとして着目し、仮説を立てるところに孟縉の資質がある。










孟縉からは離れるが。
縄文時代(5,000〜6,000年前)の海進の記憶が古風土記のころ(713年)まで伝承されたとしたらすごい。
→縄文時代海岸線





「副産物」という〈ついで〉みたいな評価はあたらないだろう。
両書を読み比べると、やはり別個の編集方針による書という印象を受ける。
 

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第一一章 『日光山志』 広がる孟縉の世界

現在、日光東照宮に所蔵されている『光嶺秘鑑』と題する全四冊本がその最初の稿本であった。これをもとにして大きな増補・改稿がなされ、『日光山志』十巻本となって学問所へ納められたのである。この十巻本はさらに改訂を施され、五巻本に編纂しなおされて、ようやく天保八年(1837)一月、刊行にまで漕ぎ着けることができた。・・・活字本としては、鈴木棠三氏の校注本がある(角川本)。鈴木氏はその解説において、『日光山志』刊行までの前史を丹念に精査され、詳述されている。

『光嶺秘鑑』という表題から受ける印象では、この草稿は、広大な日光山の領域のうち秘められた聖域の部分へと主たる関心が向けられていたようである。

十巻本の自叙・・・文政七甲申年孟春日
結びの部分では、十巻本をまとめたことについて、このたび将軍家斉が日光社参を行うと聞いたので、この書が供奉の人々にとって日光山の概要を知るためにいささかでも参考になればと思ったと、その直接の動機を述べている。・・・ところが・・・水害によって延期され、・・・刊行もそれにより潰えてしまったのであった。

文政七年(1824)九月 不軽居士松平定常が跋文
・・・『名勝図会』では孟縉を君夏と呼んでいた。ここでは子夏としている・・・子夏とは孔子十哲の一人の字名である。

文政七年(1824)一〇月 林樫宇(大学頭林述齋の子、当時大学頭見習)が序文

・・・この十巻本と、後に刊行されるにいたった五巻本(刊本)との内容上の違いはどういうところにあったのだろうか。・・・「ほとんど不明に帰した中世における満願寺の状態に、出来うる限り光を照射しようという意図が見られ」・・・「両峰禅頂など日光修験の行法、当山古来記略鈔の古文献の紹介など、今日では貴重となった史料が収載されていた」「それらの記事が、刊本では削除ないし甚だしく簡略化されているのである。このような後退を余儀なくされた刊本『日光山志』を見て、これのみに拠って孟縉の学問を云々し、或いは本書(五巻本のこと)を通俗の案内書と評することは慎しむべきことといわねばならない」
・・・それ(刊行)がようやく実現するまでには、さらに新たな工夫と努力がなされなければならなかった。

文政八年(1825)一一月 松平定常が序を撰する。(十巻本の跋文のまま)

天保四年(1833)正月 孟縉が凡例を書く。
・・・きわめて詳細で、構想から刊行にいたるまでにどのような日々があったのかが孟縉自身によって語られ、多くのことをわたしたちに伝えてくれている。
「およそ文章は絵画によって真を顕し、絵画は文章によって真を添えられる。本書中に挿絵を加えているのはその故である。
・・・思いがけない喜びが訪れた。・・・画を能くする諸家に挿絵を依頼したところ、・・・賑やかな絵画の饗宴が実現をみたのであった。

天保五年(1834)一一月 源弘賢が和文の序を撰する。

・・・孟縉は、この天保三年一二月以前までに、『日光名所図会』との書名で本書を擱筆し、挿絵もそろえて、浄書稿本にまで仕上げていたのである。それを書物問屋の和泉屋庄太郎のもとから出版したいと町奉行所に願い出たところ、町奉行はこれを寺社奉行へ廻し、寺社奉行はさらに上野輪王寺へと回付して、そこからようやくここ日光まで廻送されてきたのだった。・・・ようやく天保七年(1836)に官許を得、その翌八年(1837)に刊行された。孟縉が八一歳を迎えた正月のことであった。

天保一二年(1841)「點竄手引草」に載る紹介記事
「植田孟縉編『官許 日光山誌 全五冊』
當、雄山の勝地絶景なること詞も及ばず、清浄の仙嶽荘厳なることは世にも知る所なり。しかれどもただ金殿玉堂のみ奉賞て委を知るものなし。今此の書は凡俗の行、至難き嶮岨の山路に至るまで少も洩ことなく、樓閣も居ながらに見盡尽すべく、山水も座して知るべし。又これに密畫を加へて深山幽谷の佳景手に取るが如し。かかる広大なる霊山なれば異木霊草飛禽の如きも多かるを作者自ら眞圖を撰寫して詳なり。
総て常人に解し安く聊も私を加へず。高貴の御尊號といへども此、御山の事實に拘物は不奉憚異國の献物に至るまで悉く記す。恭、官許を歴て、ここに上木す。太平の貴賎かならず拝せずにはあるべからず。」

挿絵とその画家たちについて・・・交友圏の広がりに目を向けておきたい。・・・
等春(雪舟派を慕っていた画家?)
花菱齊北雅(葛飾北斎の弟子)
可菴欽清
華山(渡辺崋山)
河西愛貴(湖子、『風土記稿』高麗郡編纂から参加の組頭)
二世柳川重
椿年(画をよくした武士、椿山の弟子?)
徳誼(千人頭石坂氏という)
湛粛
青香i渡辺崋山の門人という)
峡山
交山(谷文晁の門人)
椿椿山(幕府鑓組同心の家に生まれた文人画家)
谷文晁(田安家の家臣の文人画家)
蔦巌
画狂老人卍(葛飾北斎)
竹谷
相筧

華厳滝
「懸崖差し出でたる危岩」の上から「頭を延べながら飛流する水勢を覘き見るばかり」

 




















文政7年(1824)、『日光山志』十巻本を昌平坂学問所に納める。
孟縉68歳。















十巻本にはあった内容:
中世における満願寺について。
日光修験など、日光山の古い信仰の形について。

五巻本に加わった内容:
東照宮社殿について。
当時の画家たちからの挿絵寄稿。


























書物問屋 和泉屋庄太郎


天保8年(1837)1月、編集し直した『日光山志』五巻本を刊行。
孟縉81歳。























『日光山志』挿絵において当時の画家たちとのコラボレーションが実現した。
これは孟縉が自身で企画したのだろうか? それとも書物問屋和泉屋などの周旋活動もあったのだろうか?


























現代では〈いろは坂〉道路も通じ、滝の展望台もある華厳滝であるが、孟縉の当時は川を遡り、山に分け入って、差し出た岩の危なげな足場からやっと覘くばかりの場所だったのである。

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第一二章 『鎌倉攬勝考』 もう一つの達成

本書を、『武蔵名勝図会』『日光山志』と並べて、孟縉著作の《地誌三書》と呼ぼう。

・・・着想から成稿までの事情が、『武蔵名勝図会』や『日光山志』のようには明らかではない。

蘆田伊人校訂で活字本刊行(雄山閣、大日本地誌大系(二六))

大系本には『新編鎌倉志』と『鎌倉攬勝考』の二書が納められている。
・・・『新編鎌倉志』は、水戸藩主徳川光圀の命により・・・貞亨二年(1685)に完成した。鎌倉についての初の本格的な地誌であった。

『鎌倉攬勝考』は、・・・この『新編鎌倉志』を参考にしてそれを踏まえ、さらに詳細な調査をおこなって編纂・著作されたものだった。・・・独自の工夫があり、・・・編別構成において際立っている。・・・本書は地域別の構成をとらない。鎌倉総説・鶴岡総説から始まって、仏刹、堂宇・廃寺、御所跡・第跡、古城趾、墳墓・墓碑、古蹟、岩窟まで、個々の主題ごとに分類して記述し、大項目事典としての編成を試みている。利用者にとって地誌研究への新たな使用価値が加えられているのである。

文政一二年(1829)八月 彰考館総裁川口長孺が「敍」
彰考館は、水戸藩主徳川光圀が開設した『大日本史』の編纂局であった・・・小石川本邸に移されたとき彰考館と命名されたことに始まる。諸国から多数の学者を招聘して修史事業が進められ、光圀の没後も連綿とつづいて明治三九年(1906)の完成にまで及んだ。

「敍」抄の現代文意訳
「植田君孟縉が、人を介してその著述『鎌倉攬勝記(ママ)』を提出し、序文を求めてきた。読んでみると、一山一水はその源奥を究め、古祠旧寺はその秘蔵を探り、事実には典拠を引き、証拠を穿鑿している。画図は分明で細部まで筆を揮い、山は秀で水は清く、見る者の目を悦ばし、悉く一覧のなかにある。
先君義公はかつて天下の奇書を購い、鎌倉中の事に筆を及ぼした。今、孟縉の書は精細にして微密、遺漏するところがない。読みやすい国字を用い雅俗を交えているが、事は確実に帰し、俗間にある名所図会や瑣話浮談ではない。
孟縉君は八王子戍兵校長、武事の職にあり、文苑は高く飛び、太平の世に恵みをもたらす。孟縉氏の賜を悦ぶ所以である。」

「凡例」概要
@『新編鎌倉志』の作例に倣うと述べたうえで、・・・
A独自の編別構成について
B古書の引用については、読みやすさを旨としたという。
C鎌倉の四境について。
D地名などの表記について。土地の人々が用いるところを尊重するなど、・・・
E距離の換算について。・・・さまざまな表記と換算法があった当時としては、地誌における基本事項であった。
F神社・仏寺についての記述・・・伝承の重視である。寛永以後・・・については銘文を記さない・・・これは今日からみれば惜しまれる。
G(部将たちの居館)その跡を、徹底的に調べ上げて記載したという。・・・孟縉が成し遂げた大きな探究の成果・・・本書だけがもつ知見の宝庫である。
H足利の世になってからの鎌倉の事蹟・・・鎌倉の地誌というからには、これは欠かせない補訂であった。
I稲村ヶ崎から江の島までを別巻として加えた
J六浦金澤を附録とした

・・・本格的に着手したのは、文政七年(1824)一一月に『日光山志』十巻本を昌平坂学問所に献納したあとの頃とするのが妥当ではないであろうか。・・・構想しはじめたのはそれよりもかなり早く・・・準備もすこしずつ進めていたであろうが、・・・

・・・諸書の記載を読んでは現地を観察し、その場所を確定してゆくという根気のいる仕事であった。・・・その諸書は、・・・文献一覧を見ると総計九二点ある。・・・現代では活字本・・・索引を備え・・・参照の便も大違い・・・所蔵する機関に出向いて・・・彰考館にまで出向いて閲覧を申し入れたのではないだろうか。

鎌倉の事蹟は、今や古文書や古器によるのみでは「往昔の事実知るべから」ざるといい、現地を訪ねても往時の営為の跡は分かりがたく、・・・このような現状認識が、孟縉をして、いま自分の生きる時代の鎌倉をありのままに記述しておかなければならないという思いに駆り立てたのではないだろうか。
・・・それまでの著述活動をとおしてつねに関心の中にあった一人の人物とその作物に思いいたったのではないだろうか・・・徳川光圀であり、『新編鎌倉志』そのものであった。

当初は『鎌倉名勝図会』を書名とするべく進めていたところ、・・・挿絵を十分に添えることができなかったため『図会』と称することを断念し、・・・
・・・通常であれば『図会』を称する地誌が・・・地域を順次にめぐるような構成をとるのに対して、・・・まったく異なった構成を試み、大項目事典として組み立てられていることである。
近世史家の倉地克直氏は、・・・「中国では、こうした形式の地誌が一六世紀の明代に各地でつくられるようになり、一七世紀後半の清代に全国に広まった。それが長崎などで輸入され、日本の儒者たちに需要された。いわば、学術的な形式といってよい」
・・・孟縉は・・・儒者としての見識をもって、事典としての効用に向いた大項目方式によって、本書を編んだのだとしてよいであろう。

孟縉は、八王子から鎌倉へ、笈を背負い、杖を曳き、矢立を携えて、数多たび往来したのであった。・・・

 
















貞亨2年(1685)、徳川光圀の命による『新編鎌倉志』が完成。















文政12年(1829)、『鎌倉攬勝考』を昌平坂学問所に納める。
孟縉73歳。


『大日本史』編纂、明暦3年(1657)から明治39年(1906)まで250年!

先君義公は…:徳川光圀が『新編鎌倉志』を編纂したこと。

瑣話:つまらない話。こまごました話。

浮談:うかれた話。根拠の無い話。

漢文を作る人は大げさな表現を好むのか、思い込みが強いのか?

戍兵:国境やとりでなどを守備する兵卒。番兵。

校長:一隊の長(組頭)であることを言っているのか?

文苑:文章・文学の世界。文壇。

































八王子から鎌倉へ何度往復したのだろうか?
孟縉70歳前後である。


















大項目事典としての構成












 

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終章 晩年の孟縉 詩あり、孟縉逝く

江戸時代の後期は《地誌》の時代だった。・・・これらの人々の著作は、孤独になされたものではない。多くの好学の同志たちが競いあい支援しあってなしとげた《時代の作品》であるといってもよいであろう。
・・・孟縉はまさしく《地誌》の時代を生きたのであった。

・・・すると、孟縉は、あの《寛政の遺老》松平信明らによる幕政の流れに沿い、信明亡き後もその意志を継ぐかのように独自にその地誌著作編纂活動を進めてきたのであった。

海防問題、異国船打払令、《蛮社の獄》、《天保の大飢饉》、《大塩平八郎の乱》、《天保の改革》
八王子代官を命じられていた江川太郎左衛門英龍は、天保八年(1837)伊豆の海防にあたらせるため千人同心の奥伊豆への移住を建議、・・・組頭松本斗機蔵が『献芥微哀』を著し、・・・天保一四年(1843)八月には下田奉行が千人同心へ武術の心掛がある者を選ぶようにと達している。

・・・最晩年の著作に『浅草寺舊蹟考』がある。・・・天保年間(1830〜44)中頃に成ったと推定することになろう。・・・『解題』の解説者は、「本書は数ある浅草寺についての著書のうち池田冠山老侯の『浅草寺志』にならぶとも云える好著」とし、「凡例にも云う、当所の事蹟にもあらぬ他の来由を記せしはよしなき説なれど云々、とある記事は著者の博識のあらわれとしてみられよう」と評している。

『石平道人外記』・・・石平道人は本名鈴木正三、天正七年(1579)に三河国足助の武家にうまれ、四二歳で剃髪、慶安元年(1648)ころ八王子に来住して、千人町にも近い・・・長泉寺に庵を構えた。世俗と信仰を一体とする独自の教えを説き、近年、その思想が注目されている。孟縉はこの先人の教えに注目したか、あるいは長泉寺からの依頼を受けてか、・・・小著をまとめたのであろう。

『自八王子郷至日光山麓街道旧蹟考』『入間郡高麗郡摘雋』・・・おそらく孟縉からの依嘱を受けたのであろうか、次男資元が老父の旧稿を補訂し、これを完成稿へと進めたのであろう。

天保二年(1831)五月六日、渡辺崋山日記『全楽堂日録』
「授業弟子数人来る。立原甚太郎、植田十兵衛、山中青漉る。小酌」

天保五年(1834)、「千人隊組頭山本良助八十の賀を祝う」書画に、・・・「八十翁雲夢齋 植田孟縉」が詠んだ漢詩が紹介されている。
龜啣玉柄増年算 鶴舞瓊筵戯青杯
亀は玉柄を銜えて年算を増し、鶴は瓊筵に舞い青杯に戯る、と読み下すのであろうか。

天保五年、千人頭原胤広は、『新編相模国風土記稿』津久井県の地誌捜索のために植田十兵衛、八木甚右衛門、塩野所左衛門を選んだ。・・・高齢の孟縉は、今回はもっぱら編纂顧問のような役割を果たしていたのではないだろうか。

天保七年(1836)孟縉八〇歳「略年譜」に「先生齢八十、左の詩あり」
新律揺灰年巳徂 乍邀芳景物華殊 耄期八十休誇健 生計千般棄倣愚
曳鴿頭筇安蹋履 乗兎毛筆事凭梧 優遊最善逢明世 天資遐齢保此軀
春にあひて八十の島への百千鳥いくもろ声の数をきかなん
                              雲夢陳人 植田孟縉書

新律揺れて灰年徂くを巳め 芳景物華を邀えながら殊なく
耄期八十にして健を誇るを休み 生計千般愚に倣ふを棄つ
鴿頭を曳き杖に安んじ履を踏み 乗兎して毛筆は梧に凭れ
優遊とし最善として明世に逢ひ 天資の遐齢この軀に保つ

また春を迎えることができた。八十というこの齢まで、いくたび鶯の声を聴いたことであろうか

天保九年(1838)「小谷田子寅の碑」塩野適齋の撰文を孟縉が書・・・下恩方の心源院
・・・孟縉の自筆の書体・・・気取りも衒いもない実に平明で読みやすい文字で・・・
小谷田子寅は、宝暦一一年(1761) 川口村に生まれた。家は累世千人同心を務め、文化八年(1811)子寅は組頭に任じている。医学に明るく、投薬や診療を求める村民の信頼が厚かったという。天文学・洋学にも通じ、天保二年(1831)に亡くなった。

天保一〇年(1839)五月一四日、・・・渡辺崋山・・・捕縛。同月一七日・・・高野長英・・・自首。《蛮社の獄》
「・・・その翌日・・・いちはやく方々に知れわたった。・・・崋山の先生や友人、弟子たちは、・・・崋山の放免につとめた。」・・・椿山を中心として結集した人々は、同月のうちに崋山の牢屋を見舞っている。・・・孟縉もそのなかにあって心を労するところがあった。滝沢馬琴はその「読書楼日記」に、孟縉が崋山の消息を案じて来訪してきたことを記している(『名勝図会』解説による)。

天保一〇年一二月一五日、・・・その学問と著述における長年にわたる業績と老年にいたるまでの精勤を表彰されて〈普請役元締格〉へと昇進した。・・・老中首座・・・水野忠邦が表彰を文書で鑓奉行へ申し渡し・・・銀七枚の賞賜・・・
・・・表彰を受けた孟縉の心には複雑な思いが去来したことであろう。・・・同じ一二月の二八日、幕府は《蛮社の獄》の処分を決定した。

天保一四年(1843)四月一三日、将軍家慶が六七年ぶりに日光社参・・・先例にしたがって八王子千人同心もこれに供奉・・・
この年、幕府は、半世紀に及んでつづけてきた地誌編纂事業を中絶した。

・・・この地に平穏な日々が流れていた・・・(『石川日記』にみる)

天保一四年(1843)一二月七日、孟縉病臥、七日後の一四日に亡。

『名勝図会』解説者片山迪夫氏
「謹直な努力型だった。生涯に日光勤番を一四回。職務に精励して御普請役元締格に任じられた。養家の家職を恥しめずに、しかも、みずからの趣味に生きた人であった。」

 





《地誌》の時代。






時代の流れの中にある、孟縉の地誌著作活動。














天保年間(1830〜44)中頃、『浅草寺舊蹟考』









『石平道人外記』








『自八王子郷至日光山麓街道旧蹟考』
『入間郡高麗郡摘雋』
子の資元が孟縉の旧稿を補訂?

孟縉は同心組頭を退役して隠居することなく、死ぬまで現役だったのだろうか?













『新編相模国風土記稿』津久井郡の部の編纂に関しては、顧問役?




































《蛮社の獄》の一方で、孟縉は精勤表彰を受け〈普請役元締格〉昇進。




























天保14年(1843)12月7日病で臥せ、12月14日亡くなった。
孟縉87歳。


 

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あとがき (二〇一一年九月一〇日)

平成一九年(2007)暮れ・・・かたくら書店田原勘意氏来訪・・・橋本豊治画伯から・・・植田孟縉のような勝れた人物が世に知られないままでいるのは惜しい。

・・・ひとりの人物の生涯を描くためには作品世界の探求だけでは不十分で、やはりその人の生涯に沿ってできる限りつぶさにその歩みを辿り、作品が生み出された背景を明らかにしなければ、作品そのものの価値もすっきりと捉えることができない・・・
・・・孟縉の生涯が読者の目に現前してくれることを願っています。

「雲」  山村暮鳥
丘の上で  としよりと  こどもと  うっとりと雲を  ながめている
おうい雲よ  ゆうゆうと  馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ  ずっと磐城平の方までゆくんか

「春の朝」  ロバアト・ブラウニング(上田敏訳)
時は春、  日は朝(あした)、  朝(あした)は七時、
片岡(かたおか)に露みちて、  揚雲雀(あげひばり)なのりいで、  蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

(三月一一日の震災に)雲夢斎・無事庵の希望は、またしても打ち砕かれました。孟縉の、ささやかといえばささやかな、まっとうといえば至極まっとうな願いを、わたしたちが実現できる日はまだしばらく先のようです。

 






孟縉の生涯を描き出す。










無事





自分の長寿と才能を最高に活かし切った孟縉ならではの風景。


2011年3月11日、東日本大震災発生。福島第一原子力発電所の
爆発事故で放射能放散。

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