歴史index | 江戸 | 植田孟縉 | 2014.1.5 | |
植田孟縉と『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』についてのメモ 冨田悦哉
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植田孟縉が編纂にかかわった『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』。 しかし両書は記述に大きな違いがある。なぜそのような差異が生じたのか? まず植田孟縉という人に興味を感じる。 |
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これは私の勉強のために資料を引用し、覚えのために注記を付したものである。 資料に誤りがある場合は、その旨を注記した。 引用は私の読み下しのために表記を変更している場合があるので、正確を期すためには原書にあたる必要がある。 |
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・植田孟縉墓 ・植田孟縉のおいたち ・植田孟縉年表 ・『新編武蔵風土記稿』について ・『武蔵名勝図会』について ・「武蔵名勝図会」「新編武蔵風土記稿」の絵について ・「武蔵名勝図会」草稿本について ・『武蔵名勝図会』凡例 ・人物相関 ・植田孟縉の言葉 ・略年譜中にある詩歌 ・八王子千人同心の歴史 ・『江戸幕府八王子千人同心』村上直編 ・『八王子千人同心』吉岡孝著 ・昌平黌 ・湯島聖堂 ・昌平黌におけるテスト ・注記 |
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植田孟縉墓(うえだもうしんはか) 【八王子市文化財課】 |
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植田孟縉のおいたち 【昭和30年7月建立の「植田孟縉先生之碑」碑文から抜粋】 |
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植田孟縉年表 【Webギャラリー武蔵名勝図会の植田孟縉年表から抜粋】 1757年(宝暦7年12月8日) 1775年(安永4年)頃 八王子千人同心組頭:植田元政の養子となる。(数え年19歳) 1792〜1794年(寛政4〜6年) 1814年(文化11年) 新編武蔵国風土記稿多摩郡調査の開始。 1820年(文政3年) 「武蔵名勝図会」脱稿。 1822年(文政5年) 「新編武蔵国風土記稿」多摩郡の部、完成。 1823年(文政6年) 「武蔵名勝図会」12巻を昌平学問所(聖堂)に収める。白銀5枚を賜る。 ↑TOP 1824年(文政7年) 「日光山志」5巻を昌平学問所 (聖堂)に収める。賞金5両を賜る。 1829年(文政12年) 「鎌倉攬勝考」完成。 1831年(天保2年) 渡辺崋山の日記に、立原杏所・中山青高ニともに崋山宅を訪問とある。 1837年(天保8年) 「日光山志」上梓(刊行)。 1843年(天保14年12月14日) 病没。(満86歳) (他に八王子戍兵学校校長などの業績もある。) |
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『新編武蔵風土記稿』について 【Wikipediaから】 |
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『武蔵名勝図会』について 【「玉川上水事典」小平市玉川上水を守る会編から】 |
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「武蔵名勝図会」「新編武蔵風土記稿」の絵について 【Webギャラリー武蔵名勝図会から抜粋】 |
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「武蔵名勝図会」草稿本について 【Webギャラリー武蔵名勝図会から】 |
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『武蔵名勝図会』凡例 【『武蔵名勝図会』(植田孟縉:著、片山迪夫:校訂、慶友社:発行)】 |
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人物相関 【Webギャラリー武蔵名勝図会から】 |
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植田孟縉の言葉(日光山志凡例) 【Webギャラリー武蔵名勝図会から】 |
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略年譜中にある詩歌 【『武蔵名勝図会』(植田孟縉:著、片山迪夫:校訂、慶友社:発行)】 |
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八王子千人同心の歴史 【八王子千人同心の歴史(八王子市文化財課)】 成り立ち 公務と事業
・文化事業 千人隊の解体 |
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【『八王子千人同心』(吉岡孝:著、同成社江戸時代史叢書15)】 |
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昌平黌【小学館日本歴史大事典】 |
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湯島聖堂【小学館日本歴史大事典】 |
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昌平黌におけるテスト【聖徳大学『日本思想史T講義』から】 【(17)昌平黌の発展から抜書き】 【(20)旗本の出世・昇進から抜書き】 【(21)大田南畝と昌平黌におけるテストから抜書き】 その後もいろいろな分野でのテストが続き、2ヶ月後の4月22日、正式に成績発表があり、直次郎は首席で表彰されたのである。その2年後、直次郎は支配勘定役に抜擢された。結果として、このテストはノン・キャリア組の直次郎にとって昇格試験となったわけである。現在でも、キャリアと呼ばれる上級職試験に合格した高級官僚は実務に長けたノン・キャリアの助け無くしては何の仕事も出来ない。それと同様で、格は高くないけれども有能なものを権限のある役職に付ける。これが江戸幕府が260年も続いた謎を解く鍵である。 |
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★『新編武蔵風土記稿』 ★『武蔵名勝図会』校訂版 ★吉田藩 ★松平晶衣女 『武蔵名勝図会』慶友社発行の解説・年譜では「松平昌成女」とある。 松平昌成の方が表記として正しそうだ。松平昌成の女(むすめ)である。 ★父が死んだ後、 誰かの保護はあったらしく、福田某により学問の素養も受けた。弱冠は20歳のことか、未だ若くしての意か? 何の縁により?八王子に引き取られることになった。 八王子千人同心株の売買の例もあるので、養子の形をとった 千人同心株買いかとも思ったが、碑文によると植田元政に才を認められ、娘婿として養子に入ったようである。 戻る↑ ★孟縉 ★八王子千人同心 ★孟縉の身分意識が武士・農民どこにあったか? 千人同心旧家の養子として職務には忠実であった。日光勤番には14回従事している。(同心のなかには 代人を頼み、自身は勤番赴任しなかった者もいた。) ★昌平黌における試験 ★新編武蔵国風土記稿多摩郡調査の開始 ★孟縉著書と各種名所図会の発行 1780年(安永9年)『都名所図会』刊行。 1797年(寛政9年)『東海道名所図会』刊行。 1799年(寛政11年)斎藤長秋病死。 1814年(文化11年) 新編武蔵国風土記稿多摩郡調査の開始。 1815年(文化12年)『武蔵野話』刊行。斎藤鶴磯・鈴木南嶺ほか。 1818年(文化15年)斎藤莞斎死去。 1820年(文政3年) 『武蔵名勝図会 』脱稿。 1822年(文政5年) 『新編武蔵国風土記稿』多摩郡の部、完成。 1823年(文政6年) 『武蔵名勝図会』12巻を昌平学問所(聖堂)に収める。白銀5枚を賜る。 1823年(文政6年)頃より『富嶽三十六景』作成開始。葛飾北斎。 ↑TOP 1824年(文政7年) 『日光山志』5巻を昌平学問所 (聖堂)に収める。賞金5両を賜る。 1826年(文政9年) 『新編武蔵国風土記稿』編纂に対して賞賜あり。 1827年(文政10年)『桑都日記』正編脱稿。 1827年(文政10年)『続武蔵野話』刊行。斎藤鶴磯・鈴木南嶺ほか。 1829年(文政12年) 『鎌倉攬勝考』完成。 1830年(天保元年) 『新編武蔵国風土記稿』完成。 1831年(天保2年)頃から1835年(同4年)『富嶽三十六景』初版刊行。 1833年(天保4年)から1834年(天保5年)『東海道五十三次』保永堂版刊行。歌川広重。 1834年(天保5年)『桑都日記』続編脱稿。 1834年(天保5年)『江戸名所図会』前半刊行。 1836年(天保7年)『江戸名所図会』後半刊行。 1837年(天保8年) 『日光山志』刊行。 1841年(天保12年) 『新編相模国風土記稿』完成。 1841年(天保12年)渡辺崋山切腹。 1843年(天保14年12月14日)孟縉病没。(満86歳) 1847年(弘化4年)塩野適斎死去。 1849年(嘉永2年)葛飾北斎死去。 1926年(大正15年) 『武蔵名勝図会』謄写版本刊行。 1966年(昭和41年)夏 片山迪夫氏が日比谷図書館保管の『武蔵名勝図会』第1巻を所在不明だった稿本第1巻と認める。 1967年(昭和42年) 『武蔵名勝図会』校訂版(活字版)刊行。片山迪夫校訂。慶友社発行。 1993年(平成5年) 『武蔵名勝図会』新装版刊行。片山迪夫校訂。慶友社発行。 2006年(平成18年)? 『武蔵名勝図会』挿絵のリメイク版を安藤勇氏がWebギャラリーで公開。 ほかに『日光名勝考』『浅草寺旧跡考』などの著作がある。 ★孟縉の交流 ★『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』の記述差について ★略年譜中にある詩歌 |
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